山岳遭難

83歳が遭難5日後奇跡の                    宮崎の山で遭難

            山岳遭難のページ
 山岳遭難と言っても「宮崎の山で?」と思われるかも知れませんが、1500m前後の山でも、油断すれば山岳遭難は春夏秋冬いつでも起きます。
 
今回、私の父が5日間、何も食べず、水も飲まずこの山岳遭難から奇跡の生還を果たしました。2006年5月のことです。

宮崎の山には、この時期、珍しいきれいな花が咲き乱れます。
アケボノツツジ、山シャクヤク、ニリン草などなど。

父は83歳の現在でも年中、グループで、時にはひとりで山に登り、ビデオとカメラで花々を撮り、絵を描いたりビデオやパソコンで景色や花々を編集するのが趣味のひとつです。

今回の山岳遭難は、宮崎県の秘境・椎葉村と熊本県の境に位置する標1546mの時雨岳に、ひとりで山シャクヤクや他の花々を撮影しに行った時に起きました。

ヒマラヤ遠征や冬の北アルプス登山など40年以上の経験を持つ山のベテランで、普段から日帰りの場合は行き先も告げずに山行していましたが、気にも留めていませんでした。

しかし、今回は2日目の夕方になっても帰ってこないため警察に捜索願いを出しました。


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 2006年5月11日(木) 午前5時00分。父の目覚まし時計がセットされていた時刻です。
父が住んでいるのは宮崎県の北部延岡市です。
父は1999年夏、大腸ガンの手術を受け、ここ4〜5年前から長年の登山で足を酷使した影響からか両膝の半月板が擦り減り、痛みで膝を曲げて座ることが出来ませんでした。

2年前、人工間接を埋め込む手術を受け昨年からようやく膝が曲がるようになっていました。
今年の正月は、長野県の北アルプスからご来光を拝むのを楽しみにしていたのですが、ご承知のごとく、昨年からの大量の雪で登山道が確保出来ず断念していました。

昨年末から今春にかけて雪による山岳遭難も例年より多く発生していると聞いていましたので私たち家族もホッとしていました。

ところが、信州の山の魅力には勝てなかったのでしょう。3月中旬に3名のパーティーで西穂高に登ってきました。この時も山には大量の雪が残り、何時崩れ落ちても不思議でないまさに山岳遭難スレスレで登頂し宮崎へ戻ってきました。

直前まで何も聞かされていなかったので、私たち家族はこれには唖然とし、驚きました。
まだ、雪が深くなだれの危険性もあったので山岳遭難のことが頭をよぎりました。

しかしながら、私たち家族の心配をよそに、本人は4日後何事もなかったようにヒョウヒョウと帰ってきました。

いつも、そんな感じですので、宮崎の日帰りの山行など気にも留めていませんでした。
ただ、泊りがけの山行きの際はちゃんと行き先と何時に帰るかは告げて行っていましたが・・・・・・・・・・・・・・・・。



 午前5時に目覚ましをセットすることは、日帰りでも片道3〜4時間はかかるコースを選んだと言うことが推測されます。もちろん宮崎県内ですが。

確か5月11日は朝方まで雨が降っていて午後からは曇りでした。
しかし、山間部は雨が考えられます。5月ですし季節的には初夏なのですが、たとえ南国宮崎の山と言えども1500m級の山は北国と変わらず山岳遭難の危険性が常に付きまといます。

 5月12日(金)夕方、弟から電話がありました。
「オヤジが昨日の朝から山に行って、帰ってこない」
「何も言わんで行っているから、宮崎やらどこの山かさっぱり見当がつかん。」

「また・・・・・病気かよ」
私は、いつものように軽く受け流して仕事を続けていました。

しかし、弟の深刻な声が妙に気になり実家に帰ってみることにしました。

弟は、既に父の山仲間に電話を掛け数人が集まって、この時期、宮崎県内で行きそうな山を協議していました。

「オヤジさんが山で遭難するはずがない。」「山岳遭難?考えられない。」山仲間は、口々にそう話していましたが、40年近くの登山経験があるベテランにとって危ない(死ぬ)目に遭ったのは数え切れないほど、と言うことは私たち家族が一番よく判っています・・・・・・・・・・。


 
宮崎の山の自然の美しさを多くの人々に見てもらって山の素晴らしさを知ってもらい、その素晴らしさを後世に残すために、国鉄を定年退職した55歳の頃から、時間にゆとりができたこともあり、2週間〜1ヶ月単位で山に篭もり、岩場にハシゴを掛け、沢に丸太を渡したり、何100本もの標識を設置したりと、登山道整備に明け暮れ、営林署の森林伐採と対峙し、自然が破壊されていく様子を多くの人々に理解してもらうため、人知れず奮闘していました。

南国宮崎とは言え、山の中に2〜3週間も入ること自体、私のような素人には、それこそ山岳遭難は免れません。

ただ、父にも葛藤がありました。長い期間山に入ることによる山岳遭難?いや違います。山に多くの人が入れば、逆に自然が荒らされるのではないかと。
しかし、山の美しさはそこに行って見た人でないとわかりません。この宮崎の山の素晴らしさを知れば理解してもらえるはず。

父は自分の信念に基づき、多くの人々に山の素晴らしさを知ってもらう道を選びました。

登山道整備の過程では、岩の上から落下したり、石が上から落ちてきたり、熱湯を背中からかぶったりと、身体中生傷が絶えない日々が続きました。足をケガしやっと帰ってきたこともありました。まさに山岳遭難状態です。

そうした最中、五葉岳(1570m)の奥深い沢で、ふとしたことから草と土に埋もれた無名の女郎の墓群を見つけました。

約300年間、スズを産出した国内最大のスズ鉱山、見立鉱山があったところです。労働者が住んでいたところは「採鉱」と呼ばれ、墓石はその一画にありました。なかには「大姉」と付けられた位の高い戒名の墓も多数含まれていました。

寛永7年(1630年)、天保6年(1835年)などと彫られた江戸時代中〜後期から人に知られることなく供養もされなかった墓が約130基、土に埋もれ竹ザサの中で眠り続けてきた女郎墓に、父は心を痛め通い続け、カズラや竹を取り払い金ブラシでコケを取り、線香を上げてねんごろに整備を施しました。

この女郎墓については多くの人々に知ってもらうために「大吹谷の女郎墓」と言う本を出版していますし、宮崎の地方版ながら朝日新聞でも紹介されました・・・・・・・。

捜索するには、範囲があまりにも広過ぎた(宮崎県北の山々)
 12日は、時々薄日が差す天気で前の日ほど寒くはありません。
父はここ1〜2ヶ月、週に2度のペースで山に登っています。
目的はさまざまで花の写真を撮ったり、女郎墓の掃除に行ったり、熊の痕跡調査などなどです。
カレンダーには14日(日)、白鳥山(1639m)と書いてありました。

親しい山仲間の話では、時期的には高千穂の奥の親父山(1644m)に登ったはず、他の仲間はいや白鳥に違いない、別の人は烏帽子岳(1542m)かもしれないと、なかなか場所の特定が出来ません。

そうこうしている内、時間はドンドン過ぎ去っていきます。とりあえず、弟と山仲間5人計6人が二人ずつに分かれて車で山に向かいました。時間は既に18時を過ぎていました。

私は、運悪く翌13日から東京、湯河原で同窓会があり行く準備をしていたところでしたが、こんな事態に悠長に同窓会に出る訳にはいきません。
キャンセルを入れ、警察に捜索願いを出して、この日は家で待機することになりました。

警察は、車などの客観的な証拠がないと動いてくれません。
延岡警察署の話しでは一応、所轄の高千穂警察署や日向警察署などに連絡を取り、山間部配達の郵便局に依頼したり、林道など注意深く調べるとの返事でした。

 18時に捜索に出た山仲間が目星を付けた所に着くまで約3時間かかります。
山の中のことで夜は真っ暗、何も見えません。2重遭難の恐れがあるので出発の時、とにかく車だけを捜そうと確認し合って出て行きました。

実家で待機していた私ですが、何時間経っても父が帰ってくる様子は全くありません。
それどころか、捜索に出かけた山仲間からも何の連絡もありません。

一人で居ると悪いことばかり考えてしまいます。
元気な頃の父の姿が走馬灯のように脳裏を過ぎります。

時計が午前2時を過ぎた頃、1台の車が帰ってきました。何も手がかりはなかったとのことです。

午前3時30分2台が戻ってきました。弟と他の山仲間の皆さんでした。こちらも何も手がかりがありません。

結局、翌13日(土)午前7時に集まり再度協議し、捜索に向かうことで一旦、解散しました。

後で聞いた話しですが、ある女性は家に帰らずそのまま日之影町の夏木山(1386m)に捜しに行かれたとのことで、涙が出るほど嬉しく思いました。


 5月13日(土) 行方不明から3日目。いよいよ山岳遭難が濃厚になってきました。

この日は、連絡を取り合ったのか、山仲間が10名に増え、北は大分県の九重から南は霧島まで捜索の範囲を広げて、車を発見することに全力を挙げることにしました。

私は、親戚の人と県中央部の尾鈴山(1405m)や冠山などの登山口に車がないか、必死で捜し回りました。

午後からは、県北の大崩山(1643m)方面に移動、周辺の道路をしらみつぶしに捜してまわりましたが、結局、この日も何の手がかりもなく過ぎていきました。
 
 
5月14日(日)快晴 とうとう4日目の朝を迎えました。日曜日と言うこともあり登山仲間が25名も集まって頂きました。本当に有難いことです。

この日は、登山口ばかりではなく途中のガケ下も注意深く捜すことにしました。3日間これだけの人が捜しているのに車さえ見つからないのは、林道から落ちた以外考えられません。
場所によっては、沢のせせらぎが聞こえるだけで道路端からガケしたまで見えないところがたくさんあります。

ここ数年、何個も襲ってきた台風で山の道は荒れ果て、車特に、普通車では通れない道がたくさん放置状態にあります。

普通車であれば、当然山奥までは無理なのですが、父の車は三菱の「パジェロジュニア」で結構、馬力があります。
車が捜索をやっかいにしているとも言えます。

この日は、たくさんの山仲間が、捜索に参加していただいたのですが、何一つ手がかりを見つけることが出来ませんでした。
私たち家族にも焦りと疲労が顕著に表れてきました。
常識的に考えても、いい方には考えられません。


 5月15日(月) 遭難から5日目を迎えました。
この日は、捜索数も10名と少なくなりましたので、最も可能性の高い所を再度念入りに捜すことにしました。

と同時に新聞各紙にお願いして、車のナンバーと特徴を紙面掲載していただくことにしました。

私は、「神頼み」です。
知り合いの勧めで「良く当たる」占い師を訪ねました。

その占い女史は、「今日(15日)見つからなければわからないが、見つかれば大丈夫。方角は南か北。次に可能性がある日は25日。」と、私に告げました。しかし、南か北の方角と言われても範囲が広すぎてあまり参考にはなりませんが、出来るだけ良い方に考えることにしました。

 
しかし、「今日か。所詮占いだからなあ・・・」などと、考えながら女史宅から実家に車を走らせていました。

 と、午後1時過ぎだったでしょうか。突然実家から携帯が鳴りました。

「車が見つかったぞ!」・・・・・

「オヤジは?」・・・・

「電波が悪くそれだけで切れた。あとは、なにもわからん。」

結局、平地にいる私たちには、それ以上のことは何もわかりません。しかし、現場ではなんらかの方法で警察と連絡を取ろうとしているに違いない。そう思いました。

「場所の特定が出来、これで警察や消防団の協力が得られるはずだ。」
「これでなんとか葬式は出来そうだ。」私は不謹慎なことを考えていました。

しかし、口には出しませんが、みんなそんな気持ちだったに違いありません。

ジリジリする時間が流れました。
そして2時間後、従兄弟の捜索者から電話が入りました。

「今、椎葉村の役場近くに居るが、消防団がサイレンを鳴らして追い抜いて行った。役場で聞いたら白鳥山の林道で車が見つかったげな。」

「オヤジは?」
「車の周りには人はおらんらしい。」
「車から300m上で、食料やカッパが入ったリュックサックが見つかったげな。それだけしかわからん。」と言うものでした。

食料とカッパが入ったリュックサック?

「食料もカッパも持ってねえじゃねえか。」
私の脳裏にますます、不安が募っていきます。

この時期、天候不順で宮崎の山でも気温は零下まで下がります。

午後3時過ぎ、車の第一発見者の山仲間と電話がつながりました。それは、弟とペアで捜していた、父の行動を良く知る山仲間の女性でした。

車は、白鳥山の隣に位置する時雨岳の中腹の、山頂に通じる登山道の比較的道幅の広い所に駐車してあったとのことでした。

この場所は、捜索開始の初日夜、弟と彼女が登山道へと続く麓の林道を通り過ぎて行ったところです。

弟ともう一度、ここへ行くことにしたそうですが、林道の岐点からの道は台風の後始末が出来てなく、車が通れるのがやっとと、荒れ放題だったと聞きました。

しかも、しばらく進むと路肩が壊れていて、ガケ下が見えないような、車が通ると今にも路肩が崩れそうな所があり、二人は車での登頂をそこで断念しました。

そして、その今にも崩れ落ちそうなところを見ると、四駆の通った轍が残っていました。しかも、下りた形跡がないのです。

弟は確信しました。「ここを登って行った。間違いない。」

二人は、頂に向かって必死で走りだしました。
体力に自信があっても山に疎い弟は、山のベテランの彼女にドンドン離されていきます。

そして、どれだけの時間登ったか、必死で分からなかった彼女がついに父の車を発見したのです。
ところが、車や近くを捜しましたが、父の姿はどこにも見えません。

彼女は、すぐに私の実家に電話をかけたそうです。しかし、山の中のこと、うまく電波が入らず詳しいことが、分からない時間が続いたのでした。

1歩入るとスズタケが生い茂る

宮崎県北の初夏の山の代表アケボノツツジ

彼女は、そのまま上に向かいました。そして、約300m登ったところの大きな木の切り株の根元でリュックサックを発見しました。

かなり遅れて到着した弟は、車を確認してしばらく頂上へ向かってから林の中に入っていきました。

うっそうと茂るクマザサや杉の大木で、昼なお薄暗い林の中を、ジグザグに父の姿を求め奥へ奥へと入っていきました。

山を知らない怖いもの知らずの弟が入った所は地元の人も、入ろうとしない将に地獄の一丁目でした。花崗岩質で出来た山肌には、ところどころに1〜2m幅の底の見えない割れ目が走り、落ちたら最後まず助かることが出来ない。そんな危険地帯だったのです。

弟がそんな山の怖さを知る由もありません。父を捜すことで必死だったのですから。

結局、車を発見した午後1時前から4時頃まで行方不明になってしまいました。
その頃、警察や椎葉村から消防団が続々と到着し始めていました。その数約120名です。
空には、県警や防災センターのヘりコプターが飛んでいます。

しかし、どの車も弟らが通過を断念した所から上に上がっていくことが出来ず、狭い登山道に消防車や警察車両、自家用車が並びました。

その中からガケ下への落下を顧みず勇敢にも突破していく1台の車がありました。
厳しい訓練を受けた警察車両でした。

その車に乗っていた二人の警察官が、偶然にも本人自身も遭難を覚悟していた弟を見つけ出したのです。

「山で勝手な行動を取ってもらっては困ります。」
「私たちから絶対に離れないでください。」

二重遭難の可能性すらあった弟は、警察や消防のみなさんから大目玉を食っていました。
本格的な捜索活動がスタートしたのは、午後3時を過ぎた辺りと聞いています。

父の車の周辺、リュックサックが置いてあった所や森の中など、大勢の捜索隊が背丈ほどの草木を掻き分け進んでいきます。
1時間経ち、2時間経っても何の手がかりも得られません。

その頃、私が待機していた実家に近所の人たちが大勢集まってきました。
聞くと夕刊を見て、初めて父の遭難を知ったとのことでした。

「オヤジさんが山で遭難って、夕刊に書いちょったが、ほんとけ?」
父の山のことは、良く知っている近所の皆さんです。信じられないと一様に驚いていました。

新聞には当初、車のナンバー、特徴など尋ね人の性格のものを考えていたのですが、車が見つかったことで
事態は急変、「83歳の山男、椎葉の山で遭難」と、大々的に書かれたのです。

近所の人たちには、あまり迷惑はかけたくないと、何も話していませんでしたが、毎日毎日、多くの人々が激しく出入りするので、何事かと思っていたそうです。

「そんなことなら、言ってくれれば良かったのに・・・。」
「すみません。あまり迷惑はかけたくなかったので・・・。」私は謝りました。

そんな会話を交わしていた頃、日向警察署から、「今日の捜索は、日没の18時で終了します。明日は警察犬を出しますので、お父さんが何か身に付けていたものを数点持ってきて下さい。」との要請がありました。

家族としては、この時期、陽が沈むのは7時30分過ぎなので、あまり早すぎないかと思ったのですが、二重遭難の恐れがあるとの警察の判断には逆らえません。

後で聞いたのですが、現場にいた弟たちは一旦、身を隠して皆が引き上げた後、自分たちだけ残り捜すつもりでいたようです。

「後、30分で今日の捜索は打ち切りげな。」「まだ、明るいとにもっとすればいいのに。」
私は、庭で近所の人たちにこれまでの経緯を話していました。

と、その時です。延岡警察署から電話がかかってきました。

「お父さんが今、発見されたそうです。」
「ええ・・・・えほんとですか」
「無事のようです。」
「ほんとですか」私の声は一段と大きくなりました。

「今、熊本県の多良木警察署から連絡がありましたから、そちらに電話してください。」
「有難うございます。有難うございます。」

「オヤジが助かったぞ・・・・!」私は無意識に大声で叫んでいました。
皆、手をたたき、抱き合って喜んでいました。弟の嫁はその場にへたり込み、涙が止まりませんでした。

それにしても、何故熊本の警察からか。私は当然のこと、他のみんなも状況がまったく飲み込めません。

私は、すぐに延岡署員から聞いた多良木警察署に電話を入れました。

「遭難者の長男ですが、父はほんとに助かったのですか。」
「えー生命に別条はないようです。警察署の隣が公立病院ですので今、こちらに向かっています。」
「で、どうやって発見されたのですか?」

「森林組合の人が、仕事を終えて林道を下っていたら、水上村の道端に横になっていたそうです。」

それにしても、熊本で発見とはまったく意外です。車が発見されたところからは40kmは、離れています。

「アーお父さんが戻ってこられました。担架に横になっていますが、話しは出来そうです。話しますか」
「えぇお願いします。」

「何しとっとけ?」「山のベテランが・・・・。」
「すまん。すまん。道を間違えてしもた。」・・・・後は声になりません。

近くにいた人たちに次々と電話を回し、父の5日目の生還をやっと実感することが出来ました。



90%以上諦めていた父の生還。5日間何も食べず、水も飲まずに生き続けた生命力に公立病院の先生も「信じられない」を連発していました。雨が降った山で水が飲めないとは不思議でなりません。

後で聞くと、沢からはザアザアと水は大量に流れているのですが、どの沢も急坂で下りると尾根に戻る体力がない。それなら体力を温存する方を選んだほうが生き延びられると判断したそうです。

初日、2日目は本人に遭難の自覚がまったくなくビデオを回し続けていました。珍しいピンク色のシャクヤクも多数撮っていました。

この頃から疲れも溜まりだしたのでしょうか。枯れ枝が熊に見えたのでしょう。写真を見ると確かに熊のような枝にも見えます。本人は、ついに熊の写真撮影に成功したと錯覚し、この写真だけは持って帰らなければの一心だったと話していました。

何故、熊本に出たのか・・・?
東に行けば林道に出ると、ひたすら東に向かったところが、実際は正反対に向かっていたのです。
83歳にして不覚にも迷ってしまったらしいのです。

山の鉄則は、「迷ったら動くな」、「動くなら尾根を目指せ」と聞いていますが、2日目の夕方から冷え込み、両手にはカメラバックにたまたま入っていたビニールの買い物袋2つを両手に巻いて寒さをしのいだと申していました。

そして、大きな倒木の隙間に葉っぱを敷き詰め2日目、3日目は一歩も動かず、天候の回復を待ち続けたと言っていました。


父は、助けられてそのまま多良木公立病院に入院しました。
診断の結果、水を飲んでいなかったので、急性腎不全とストレスからくる軽い胃潰瘍を併発していましたが、驚くほどの速さで回復、10日で退院しました。

以下の文章は、父が入院中に書いた「遭難報告書」です。
病床で書き、退院後自分でパソコン入力したものです。原文のまま紹介します。


可憐なピンクの山シャクヤクが無数に

父の山岳遭難報告冊子
                     
                   天国と、山シャクヤクの狭間で(時雨岳遭難報告)
                                                    
  
 このたびの、山旅の目的は、山シャクヤクの花を画くための、モチーフになる花を見つけに、上椎葉村の時雨岳に行くことでした。
 
 何故時雨岳かというと、私のしる限り、この山だけに、ピンクの色をした花が有るからです。
 
 毎年此処には、1〜3かいは通っていますが、此処2年、椎葉村は過去にない大水害に襲われて、特に時雨岳を始点にした土石流が、日添地区を直撃、とても花見に行ける状態ではなかったので、2年間見合わせてきました。
 
昨年の台風でも椎葉村は、大きな被害を受け、いたるところが、応急手当てであるけれど、どうにか車が通れるようになったという、情報がはいったので、矢も立てもたまらず、此処に向かったのです。
 
今年は全般に季節の進み具合が、10日前後遅れて、はじめに計画していた、予定は全てやり直し、毎日が日曜日の私でさえ、あのゴールデンウイークがつかえなくなってしまったことです。
 
 そんなときに、親父山に登ったのですが、ご多分に漏れず、アケボノつつじはまだはやく、高度の低い、登りくちだけ満開、此処にこんなに、アケボノつつじが美しく咲いていたとは始めて知りました。
 その付近から見る、対岸の黒岳もピンクが目立ちました。

親父山が駄目なら、黒岳があるさ

 帰りはこっちの尾根を帰ろう、一応障子岳まで登り、下りは親父山から、黒岳に入り込みました。
連れの崎山さんは、まだこの山は登ったことがない。すっかりこのルートが気に入ったようで、今は蕾だけれど、これが満開になったら、どんなに美しいだろう、それに、此処にはしゃくなげもいっぱい蕾をつけていました。

こちらも見逃すわけには行かないぞ。
 
白鳥山の山芍薬も、昨年からの懸案、連休の休みが春寒のために、繰り越されてしまって、予定のいればがない、今年5月中旬は、いっぱい詰まった、日程の中に、黒岳が3日も入ってしまって、一番行きたかった時雨だけが、浮いてしまったのです。
 
いつもアシストしてくれる崎山さんには悪いけど、時雨岳にゆきたかったら、こそり平日に行くよりほかはない。

11日(木)、長期予報では雨だったのに、二日前になって、急に曇りに変わってきました。
 ゆけないと思った日が、急転大丈夫らしい、もう一つ木曜日は、私の通っている、催しも休みの日、これを逃す手はない、前の日になって、急転行くとなってきたのです。
 
 黒岳が3日,6日,そして、14日と、前の二日は早すぎて本命は14日、白鳥山は、21日まで順延しなければなりません。そのとき一緒に 時雨岳に行けないことはないが、肝心の色付きの花は、他の花より早く咲く傾向にあるから、それまで待ってはくれません。
 
取るものもとりあえず、家にある食い物を、全部ザックに詰め込んで、いつも寄る行縢のコンビニーは素どおり、今日は和食弁当は抜き、何処にも寄らず,国見トンネルを潜りました。
 こうゆう事情で、一人誰にも言わず、行ってしまったのが真相です。

 皆さん本当にごめんなさい。
                      山は綺麗な花が咲き乱れていた

時雨岳は、私にとっては、美しい花をもつ唯一の、1時間足らずで登れる、一番取り付きやすい、山の一つです。
気軽にいけるくらいの山しか歩けないときが4ヶ月続きました。 こんなに痛むなら、もう手術をするよりほかはないと、県立病院で手術予約をして、もう山に登れるのは、これで終わりだと、あきらめの決心をしていたとき、崎山さんから、誘いが掛かってきました。

 
それは、連休の終わりの5月6日でした。 雨続きの連休後半でしたが、曇ったり降ったりの予報は、行けないほどではない。
 
 「猪須さん、時雨に行こうや、ゆっくり登ったら、登れないことはないが」
真剣に誘ってくれました。

よく滑る表土剥き出しの山ですが、杖を2本のついて、痛み止めも倍飲んで、登れなくなったら、滑って降りればいい、一歩、一歩滑らないように、杖で慎重に支えながら、最初のシャクヤクの花のある所につきました。足はまだ大丈夫みたいでした。
 
まだ先に行けそうです。 そして1時間20分ぐらいで、ピンクの花のある山頂につけたのです。雪洞の模様をした、ピンク色の花はとても可愛らしかった。
 
先年は、時期が遅くて、落ちているピンクしか見ていなかったのですが、今年はちょうどぴったりの時期、まだ夢にしか見ていなかった、ローマ字で縁取りされた花も、見せてもらいましたが、今は何処かに消えてしまったようで、その後2度と会えることはありませんでした。

あの文字はきっと、崎山さん有難うと書いてあったに違いありません。
 かえりは杖があるから、割とすいすいと降りられました。

まだ、痛み止めが効いているのか、帰りの車でも大して痛みません。
 今夜は痛むだろうな。覚悟して床についたのに、翌朝になっても、次の日も、そのつぎの日も。薬がいりません。
 若しかしたらあの山の登りで、坐骨神経痛が治った?

1月から力の掛け損ないで、痛みが始まって、評判のいい「ホリイアン」という所で2ヶ月近く、やいとで皮膚を焼きました。1年ぐらいやらないと効果がない、といわれたので今度は、カイロプラスチックという方法で、整体に10回ほど通いました。

はじめ一寸治りかけたのですが、3回、4回、又もとの木阿弥

どうしても効き目がない、諦めて県立病院で診察してもらって、手術を決意し、予約も出来ていた矢先、なんと時雨岳にのぼった、たったそれだけで、坐骨神経痛が完全に治ってしまったのです。

関節や、筋のねじれなど、目に見えない歪みが、山登りの全身運動で、元の戻ったためです。
 
そのときの山が時雨岳、連れて行ってくれたのが、崎山さん。
今度の遭難で、私の車を見つけたのも、とうとう私を遭難させた、ザックの置き場を簡単に見つけてくれたのも、真っ先に次男と病院に駆けつけてくれたのも崎山さん。

この山には、何か目に見えない、深い縁が繋がっているような気がします。
足の捻挫は、山登りで大概治るという経験は3例ほど持っています。
山に登ることは素晴らしいですね。

「変形性膝関節炎」はそんなことでは治りませんが、それから2年あと、県病院で手術。今は人工関節、プラスチックパッキンのお世話になっています。
 
時雨岳は、私の健康に深くかかわっています。忘れることの出来ない山ですが、今度もまた、一生で2度とない、貴重な体験を積むことになりました。

そして地元椎葉村の、行政はじめ。消防団のみなさま、村のかたがたには、深い台風災害の、復旧のさなかに、貴重な、時間をついやし、あの熊と隣り合わせのような、峻険な山岳地帯を、捜索していただき、家族一同心から感謝しているところです。
 本当に有難うございました。
 
 行き先も告げず、行ったことない林道を上がって、所在を確かめるのに大変だったようで、随分捜索に苦労をかけさせました。
 
私も春の諸塚山山開きのとき、友人から聞いたばかりのコースで、徒歩であがっていたとき、新しい林道の建設がはじまっていることは、気にかけていました。

 この山が何処まで入れるか未知数で、入り口そのものが、四駆でないと登れない悪路、自分ながらよく入っていったと思います。 入ってみれば1ヵ所を除いてわりと登りやすい道で、軽仕様の小型だったから、やすやすと入れたと思いますが、思いもかけず林道上下に、目指すシャクヤクの群落があって、まず感激しました。

石灰岩をはつった広場は、明るくて、清潔で、すっかり気にいりました。

教えてくれた人は、駐車場から山頂まで、30分で行けると言いましたが、何処にある駐車場かはわかりません。山頂への取り付き口が、何処にあるかは判りませんが、何処から登っても、たいした距離ではないだろう。 
駐車場からまだ先に道は伸びていましたが、車を止めるにはもってこいだし、もう終点も近いだろうと、小さい沢の、緩斜面に取り付き登りはじめました。
 
いつもは杖を持ってあがるのですが、撮影するときは、邪魔になるし、潅木の多い傾斜地は、立ち木を使ったほうが登りやすいものです。

車の近所から、花があったので、つい手袋を置いてきてしまいました。気が付いたけど取りに戻るのが億劫で、手袋なし。最後に病院で数えたら、30余り小さい傷後が付いていました。べつに支障をきたすほどの傷ではありませんでした。
 
 山に取り付いて見ると、石灰岩質の多い山は、花も好きで、新たに何箇所かお花畑に出あって大喜び、30分で登れるにしては、もう1時間半?ふと右下を見ると、私よりも山頂近い方向の,露岩の広場に、見覚えのある車が止まっています。
 
 何だ私の車?あんなに歩いたのに、私の位置より目的地に近いところにある。
何故だ? この疑問最後までわかりませんでした。

これがそもそも頭のおかしくなった、前触れだったのかなと思っています。
簡単に登れる予定だったのに、案外道は悪く、数箇所竹に遮られ、直進できません。

竹が随分濃く生えています。少し右下に迂回そんなところには、大概沼跡があって、空沼二つ、水溜り三つ、どんな理由でできたのでしょう。ひとつの溜りには、鹿の足跡がかなり付いていました。熊の足跡は?と見たけど、其れらしきものがあったか、気が付きませんでした。

車をとめた石灰岩の層は、斜めに尾根向かって伸びて、道の好目印、帰りはあの露岩を目印に降りたら最短距離で車のところに降りられる。

その上辺りから、歩きにくい薮は消えて、石灰岩の群落、その岩には緑の美しい苔、苔のついた石灰岩と花、絵のモチーフに格好の造形、何回もカメラを回しました。
 
それからほどなく、尾根の裏側に、広い駐車場があります。
あの林道の先端は、小さな尾根を回って、此処まできている。此処まで車が入れたのなら、車でくればよかった。 

林道と尾根の高度差はせいぜい数十メートル、駐車場から見える下方の林道は、略水平、此処から見える200メートルほどある終端付近が、少し内曲がりになって、白い層が一寸みえる。
 

広場と、尾根との間には、段差も何もない緩やかな繋がり、まだ先がありそうだから因みに、歩いてみると、100メートル先で行き止まり、道下は100年はあるかと思われるような、見事な杉の成長林があった。あ これが目的でこの林道を作ったのか?
 
それにしても、駐車場の真上から100メートルも行かずに、いつものぼる、お花畑があって、尾根から50メートルも下は、若い杉の人工林。あの杉は何処から上がってきて植えたのだろう、かなり広いが、疎らに生えてその空き地が、絶好のシャクヤク自生地。

第3のお花畑は、第一のお花畑から300メートルはない。
此処までが、今日の撮影予定地。ま、これだけの広さしかないところだから。

こうゆう地形と言うことは充分承知していたはず。
車を降りて、第一のお花畑まで30分で来るはずだったのが、案外地形にてこずって、1時間45分も掛かってしまった。

帰りは道を歩くから、随分楽なはず、ちょうど昼、パン類が主食、バナナも1本持ってきたし、お茶はまだ熱い。 はいてきた雨具のズボンも此処で脱いで、ザックにつめた。

じゃこの付近で撮影に入ろう。 ザックは撮影には邪魔だから、大概大きな目印の木に置いていた。今日は上からも良く見える広場、ちょうど大きな切り株がおいてあるから、その上に載せた。

ザックの口からは、3脚が覗いていたけど、誰もきそうにはなし、雨もまず心配は要らなさそう。
これがザックをおいていった理由ですが、そのことがこんなに大きな騒動の始まりとは、思いも寄りませんでした。

 此処の林道は、確認できる範囲で300メートルの幅があります。これが頭の中に焼きついた、道が判らなくなったとき、絶えず頭をよぎっていた構図です。
 
この裏側にある、広い駐車場を伴った林道は、南面を迂回して、私の登ってきた林道と繋がっている。 此処までくるまでに2時間近くもかかかった、道も悪かった、帰りは多少遠回りでも、この道を帰ろう。 もう12時だから此処で昼飯にして、荷物はこの目印のある、切り株の高台において、これからカメラ一つ持って撮影だ。

       山シャクヤクのお花畑

シャクナゲも可憐な花を咲かせていた
 
 勝手知ったシャクヤクのお花畑は、この上の尾根を東西に向かって、せいぜい400メートルの範囲、 この山が、東西ではなくて、南北を向いていて、私は北に向かって歩かなければならなかったのに、東側に主稜線があると思って、もうひとつの稜線をあがったり降りたりして、ザックの在り場を探していたようです。
 
 視界もない所を、上下して行く内に、進行方向が全く逆になってしまったことがわからなかったようで、目標もわからないまま、勘で歩き回っていたと思います。

 まだ天気の良かったとき見た記憶を頼りに、地形を一生懸命頭の中で描きながら、行過ぎたのか、行き足らなかったのか、300メートルはあった長い林道に、どうして出会えないのか、理解できませんでした。

あの林道終点の、白いハツリ跡、内曲がりに曲がっていた、ちいさい尾根は、実はそこから派生した、90度東に向いた別尾根で、其処を上がったり降りたりしていたらしいのです。

花のある位置は、下ってもせいぜい数十メートル、たっぷり写しまわって、念願の、ピンクや黄色、それに一番上品な、いぶし銀、満足行くほど写せた、これも人に気を使わず自由に動ける一人歩きの特権と思っていました。

大体思っていたとおり写し終わって時計は3時。もうやめよう。

霧が出てきたみたいだが、勝手知ったおなじみの道だから、本峰へ帰る道は、端っこの狭い通路を、石灰岩の並ぶ尾根に出て、最近手入れされた薮だったところは、行きに見ていたので、100メートルほど引き返すと、やや上りになって、いつも最後に其処にはえている、格好のいい株でお別れのシャッターを切る。
 
其処までは視界が悪くても間違いなく行動できたと思います。
でも視界が全然利かない深いガス、山の傾斜、木の生えている位置、明るいときの記憶、置き場は見えなくても、間違いなく林道に出れると思っていました。
 
何回下ってもここぞと思う林道に出ません。
ザックの中には、車のキーが入れてあります。300メートルもある林道だから、少しぐらいは早めに降りたとしても、2〜3回調整すればと、50メートルぐらい間隔を置いて、小刻みに、何回も何回もあがったり降りたりして探し回りました。

そのうち、美しい水の流れる谷に出会いました。
昼から全然飲んでいません。口をつけて飲むと、岩の中から、妖怪の声がします。

よし録音してやれ、そっとビデオを岩の上に置きます。
時間は6時、ガスの中から、里山では聞いたこともない美しい鳥の声。

バードウオッチング、こんな所でしたら素晴らしいだろうな。
まだ心には余裕があるようです。  

其処からまた50メートルぐらいのところに、其処よりもまだ豊かに、清水が流れています。今後も水は何とか間に合いそうと、思ったのが最後、もう水のある地形には出会いませんでした。

第二のお花畑も、石灰岩の多い地形、第三のお花畑は、尾根付近が同じ地質、谷の流れは、その下辺りかもしれない。ということはまだ駐車場まで200メートル引き返せば何処かで林道に出会える。
という風に、あらゆる兆候を推理して、行ったり来たり、300メートルもある目的地を、探しあぐねていました。
 
 気が付くと、ガスのなかでも、なんだか暗くなってくる感じ、恐る恐る時計を見れば7時半、ザックを見つけ出せないうち夜がくる。

この心細さ、それでも風景は何も見えない。行ったりきたりしたため、自分が何処にいるかさっぱり判らなくなってしまった。
 もうすぐ夜がくるな。何処かで夜露をしのぐ、雨宿を見つけないと。

適当な倒木探しも加わった、フト尾根伝いに、すず竹を払って道がある。
大きな倒木には「コの字」型の切り込み、登ってくるときは、尾根を広く歩いたのに見ていないが、これは間違いなく、車を止めた、駐車場に下ってゆく歩道だろう。

それから切りかぎのある倒木を、3本余り見つけて、下り方向は判った、だけどザックを見つけなければ、車に入ることも出来ない。
 
と、其処に始めてみる赤いテープ、そして今度は反対の裏側のほうに、確かに踏み跡、これは間違いなく裏の林道に降りて行く道だ。
 
林道さえわかれば、広い駐車場そして、ザックの在り場を探すのはなんでもない。
そう思って、記しのある倒木のみちをくだるのを、一時、留保してしまった。

右側の道、始めははっきりしていたが、下りてゆくうちに、見失ってしまった。林道は300メートルは有るのだから。何にもないまま200メートルは下った。それでも林道には出会わない。
 
もうすっかり暗くなり、今日中には帰れない。もう何処かでビバークしないと。

適当な倒木に、バイケイソウの葉っぱを乗せて、急場しのぎの仮の宿。時間は8時40分。

初めての野宿。 随分疲れた。腹減った。寒くはない。雨も大丈夫らしい。
寝るともなく、うとうとしていたら、多分南東方向に、明るい電灯が1個見えた。
 
何処の灯りだろう、行けそうにもない遠い光、市房ダムかもしれない。
ふと頭の上が明るくなってきた。  
雲が切れて月がさしこんできた。 

や、月だ。大体方向がわかるようになってきたが、自分がどんなところにいるかさっぱりわからない。 
それでも下木の輪郭がわかるようになってきた。

これは寝ているわけにはゆかない。
また立ち上がって、猪のように、あの大きな林道探しが始まった。

やはり、車のある駐車場のほうではなく、ザックのある側、かたくなにこれでもまだ車のキーに固執している。
上がったり降りたり。やはり林道はない。もうお宿にする倒木も見当たらない。

こうなったら道探しは明日だ。
ちょっと枝を広げた針葉樹。一番大きいそれでも70センチ程しかない、立ち木を跨いで、30度ぐらいの傾斜地に仰向けに寝転んだ。

足場は悪いし、跨がないとずり落ちてしまう。こんな人間の寝床みなさん、見たことありますか。
 
時計は11時59分になっていました。どこかでもの寂しい、「ヌエ」のなきごえがします。
今は深山でないと聞かれない声。録画ボタンを押しています。この声は、場所を変えてときどき聞こえてきたが、もう一度朝早く録音したようです。

明日、いや夜が明けたら、逆向きに鈴竹の薮を登らなければならない。 尾根を越せば其処には自動車がある。
此処でようやく、ザックを諦めて、車のある駐車場に降りようという気になれた。
重たい気持ちで眠ってしまいました、

喉が凄く渇いている。
 

夜が明けた。反対側に越せば車がある。 歩きにくい逆向きのすず竹、一尺ずつ、随分下っていた大きな尾根を登り返しました。

でもスズ竹は思ったようには密生していない。昔は竹薮の逆登りは大変だったが、今は何処に行っても、隙間が多い。 1メートル先も見えなかった、竹の簾はどうなったんだろう。 随分下りていた。別のルートかもしれない林道を探して、200か300メートル。

何とか上り返して、一番高いところまで出たようだけど、この下に車のあるような所は?

一寸おりくちがないまま、前進したら、樹木のない禿山に出ました。
傾斜はかなりあるけれど、足場は柔らかく、今までのところに比べたらなんと歩きやすいこと、いい気になって必要以上に下ってしまった。

斜面の下端まで来て、下のほうから水音がする。
喉はからから、どうしても水が飲みたい。急な崖の岩場に清水の流れが見える。 何とかして降りていったが最後の崖は危険と、また引き返しました。
 
何処かで「カッコウ、カッコウ」と鳥の声
久住なんかの「かいかつ地」を好む鳥だ。 また一つ向こうの沢でも微かな水音、あった、久しぶりに飲む水、おいしいのになんと嘔吐を催してきたのです。

腹に何にも入ってないから、胃液で自己消化? 一寸緑がかった繊維質みたいなものが出て、あと濃い痰のねちねちしたとゆうよりも、あれはモチモチしたという感じでした。
たいした量ではなかったけれど3日目、雨宿りしているときも、すこしづつでていました。

水場に行くと何処でも聞こえるのは、地獄の底からのささやき、よくもこんなにいっぱい居るものだ。 

なんと思いますか。 まだ冬ごもりから完全に抜け切っていない、蝦蟇なんです。
後で地図を見たら、横才川の源流、つまり球磨川の一つの源流は此処だったようです。
 
なんと私のつけた見当と180度も逆方向、いくら探したって、ザックも林道もあるはずがありません。 

この開けた荒地よく見ると、微かな道らしいものが、ジグザグについています。 其れを束ねるかのように、上を向いて右端に縦に付いている踏みあとがある。

その中に矢印があって、ウケドノ谷、其処から30メートルほど行ったところで分岐しているほうにはカラ谷とありました。

初めて文字に出あったと記憶しています。
どちらも白鳥山の山頂に至る登山口の名で、矢印がかいてあれば、此処から1日で登り降りできる距離にあるものと判断しました。
 
私はカラ谷までは行かなくてよいが、その手前の時雨岳に行きたい。
矢印に従って、右のほうを辿ろうとしたけれど、程なく次の沢を越したところで、判らなくなってしまいました。

でも大体の方向はこちらに違いない。沢を渡り尾根を越え、何箇所かで美しいシャクヤクのお花畑に酔いながら高台で、其れらしき山の兆候を注意深く観察しながら歩きましたが、あの石灰岩の露出した時雨岳を、見つけることが出来ませんでした。
 
二日目の昼頃です。

これではもう、車のある所まで帰れる時間がありません。 今夜は雨の予報だから。

谷のほうを見下ろすと、3ヶ所ほど剥げて、木のないところが見えます。 
最近伐採したという感じではないけれど、人手が入っている。其処にはきっと道があるはず。
 
この大きな右の谷に入ったら、熊本側に出てしまうだろう。少なくとも私は不土野側に降りなくてはいけない。 
何処が椎葉側やら、水上側やら始めてだから判らない。
だけどできるだけ左側へ、左側へ舵をとろうとしたけれど、左に行くほど山が大きくて。とうとう人手の入っている谷を目指していました。
 その沢には、3つ伐採したあとのように、木の生えてない荒地?がみえます。

上から見ると簡単に行けそうだけど、幾つか、尾根や谷を越えなければ、最初の一つさえ届かない。
そして着いてみると、周辺には、必ずネットの垣、その何処かには必ずといっていいくらい、カモシカか、鹿の白骨死体がちらかっています。

霞網のような、黒色の丈夫な樹脂紐で編れたネットは、多分夜は、雌鹿やカモシカが見つけ損なって、首を突っ込む大きさ、昼だって疾走してくればかかる率は大きいに違いありません。

私も3度、昼間に角を絡ませて,悶えている若雄を逃がしてやったことがあります。  
首を突っ込んでいた雌しかは、外している内にぐったりなって動かなくなりました。 

刃物があったら、ネットを破ることが出来たのにと、とても悔やまれました。

赤い横断幕があって、警告のため色付きの、テープが併用してある、森林管理所のネットでさえ、矢張り白骨死体がつきものです。此処には大概ネットを張った理由が書いてあります。

「絶滅危惧種」の稀少植物を、食害から守るため私の知っている山では、ススキしか生えていないのに、新しい機材で、ネットを張りなおしたところもありますけど。
 
今見ている荒地には、新しい植林らしい木もなく、保護しなければならないような、植物も見当たりませんが、荒地の周辺を取り巻いて、ネットが張り巡らされています。

支柱、ネット、ペグ、張り綱、相当な量だから、運搬のために道が出来ているに違いない。
 
その道を伝って帰れる。これが私の目的で、この荒地に向かったのですが、一つ目、二つ目、道らしい道がありません。 

その他の草木もない、禿げた荒地、最近伐採したあとでもないのに、何でネットが張ってあるのか意味が判らない。

最近は流行のように、何処もかしこものネットで覆われている。
狩猟法はどんな見方をしているのだろう? 

此処にある3つの木のない荒地、その一番下にある空き地には、10万本のシャクヤクの大群落がある。 300メートル四方はありそうな空き地、 上から樹林帯を横切ってなるだけ上の方に取り付こうと思ったが、下から3分の1ぐらいのところに出た。

ネットに沿って大回りするような余力はない。
悪いけど横切らせてもらおう。ネットは元のように戻しておけばよいだろう。

人の通るところも、獣が利用するところも大体同じ場所のようだ。

私が抜かなくても、ペグが2本、引き抜いて投げ捨ててある。ネットを押さえていたところから3〜4メートルも離れていれば、ただ抜いただけとは思いにくい、私も押さえのない所を潜ることにする。
 
 と、右下の翳からするどいカモシカの威嚇に遭った。自分も捕らえられたみたいな環境にありながら、威嚇もないものだろ。

「雉もなかずば」と言う言葉を思い出した。私は鉄砲を持っていないが、あちこちにカモシカの糞が転がっているところを見ると、常習犯らしい。   

域内に入ると、其処は小さい雑木の叢、剥き出しの赤土の中に、小オアシスみたいなところが、3箇所あるようだ。

  熊の糞?

岩手県山中で撮影され熊の糞

その中に入って驚いた。なんと産みたての熊の糞が湯気でも出そうに転がっている。
熊だったらこんなネットなんか何の障害にもならないだろう。

珍しい物だから、ビデオとデジカメで確実に記録した。 私はこれから広場を通って、お花畑の脇を横切り、上の稜線に登りたい。ゆっくり歩を進める。

ふと第二の叢に近づいたとき、木の陰に熊がいる。
漆黒で黒光する毛色は、間違いなく「月の輪熊」

しかもたったたった30メートル余り、これは思いもかけない大収穫だ。カメラを出して一生懸命回す。 

怖い? そんなこと全然ない。
熊は私から視線を避けているようだ。見たこともない人が怖いのだろう。

本州の熊国の人だったら、どんなに疲れていても、必死になって逃げるケースだけど、私は違う。 

長年熊のことを研究しているから、九州の熊は先ず人を襲うことはない。交友想定もしてきたから、少しも驚かない。 
出来ることなら手を差し伸べて握手したいくらいだ。
 
さっき、糞を写したところから9分、距離は150メートルぐらい。 あそこで糞をして、草でも食べようとしたら、思いもかけない人間が入ってきた。 

本来ならばまだ離れているところで気付いて、早々と避難しているはずだったが、滅多にこない人間が、いきなり入り込んできて、ネットと言う囲いの中、しかも隠れ場所がない。

已む無く次の叢に逃げ込んだけど、身を隠すものが何もない、仕方なくとった姿勢はなんと、古株に化けること。
ジーッと2分間動かずのポーズ、彼から見たら「頭隠して尻隠さず」 こんなのを死語で、「木遁の術」 忍者の良く使う言葉を、見事に復活してくれた。有難う。

視線は一度もこっちを向かないけれど、口が動いているよ。
背中の筋肉が小さく波打っているよ。
 
私はそのことで間違いなく熊と判断しました。
今までどうしても月の輪熊の写真が欲しかった。

ほかに月の輪熊の痕跡は何万と持っているけど、最後にマスコミから言われる言葉は、そんなにあるなら熊の写真を見せてくれ。 

山の中に月の輪熊がいるのは当たり前、待ちに出てきたところを写してこそ私の証拠は生きるのだけど、今回のように、ビデオを見た人全てが、あれは月の輪熊ではなくて、木の株だと信じ込んでいます。

「熊が木に化けた」 将に前代末聞、 私も見舞いにきてくれた人の話を聞いて、がっかりしていたこともありました。

自分から、ビデオカメラと、パソコンを使って、60分の1コマで再生して初めて、あまりよく見えない自分の目が、動きを的確に捉えていたことに感動しています。
 
この事は本当に偶然なのか、何かの力がこのドラマを演出したのか、後者のような気がしています。
 今遭難して,生きて帰れるかどうかもわからない、老人の目の前に、間違いない熊の糞が一塊落ちています。

熊は頭がよくて、力が強いから、こんなネットぐらい何の支障にもならないけれど、世間の常識では、九州に月の輪熊は居ないということになっています。

でも私は現に此処で、ビデオとデジカメで熊の糞を写していますし、皮剥ぎの爪跡はいたるところで見てきました。

鹿、カモシカも似たような木の皮を食べますし、特に時雨岳の鹿は、よく杉の皮をはいで食べています。

違いは、剥いだ跡がつるつるで、鋭い爪跡がないことです。
 特にお隣の白鳥山では、熊の皮剥ぎが広い範囲で見られます。 
それは小さな雑木でも区別がつくものです。

此の山は10年前までは、「黄レンゲショウマ」の群落があり、筑紫見返り草、瑠璃草などの珍しい花が一杯あり、全山を山あじさいが覆っていました。

一寸脇道に入るとすず竹が過繁茂して立ち入る隙間もないくらい、林床が緑に覆われていました。

ところが、10年程前、下の峰越林道の舗装が完成した頃より、急速に多くの植生が失われ、今は山頂付近の丸い尾根が、シャクヤクやバイケイソウを除くと、草ひとつ無いような透け透けになっています。

数年前、森林管理所が、この地域を「森林遺伝子保存地域」に指定してからの、施設だろうと思います。
害獣から稀少植種を守るため、ネットを張ったばかりのとき、白鳥山に登ってみました。 赤い横断幕が張ってあって、異様さにびっくりしました。

貴重な植種の木があるのかと思ったのですが、根っから皮をはがれた大木は、ネットの外にあるのに、鹿の害を防ぐためと書いてありました。

雑木の食痕をみると、鹿の剥ぎ跡もありますが、殆どは熊のものと私は確信しています。
 
 九州に月の輪熊は居ないということになっているけれど、至るところにかなりの熊がおる痕跡があります。 問題はその熊の食べ物が、惨めなくらい少なくなっていることです。
 

疲れから熊と勘違いした枯れ枝?

私も道に迷い込みながら、本来なら1間先も見えぬように繁茂しているはずのすず竹林が、逆走しても、私の体力でやすやすと登られる。これは本来の姿ではありません。

自然生態系が潰されて、本来のあるべき堅果を齎した、広葉樹林が極端に減ってしまった今、一番頼りにしている食糧は、筍ではないかと思います。

すず竹の筍は育つ前に全部食べられて、親竹が育たず、竹に勢いがないのです。
筍が手にはいらなければ、笹を食べます。

宮崎県の幽谷大崩,五葉、傾山系のスズ竹があっという間に絶滅しかけているのをご存知でしょうか。

本州では逆な現象で、竹が繁殖しすぎて困っているのに、人家を離れた九州の山では、芽の出る前から、筍がほりあげられて、人の口に入らなくなったと嘆く山村があります。
 
時雨岳で新しく出来ている林道、今は地元椎葉が、此処2年間の台風の大被害で、伐採に手をつけられるような状態にないから、見合わせておられると思いますが、これを続行するようになって、生態系が壊されたら、
捜索に参加された皆さんが、体験されたと思われる濃密な熊の痕跡、ここはまさに最後に残った熊の楽園の一つ、数年を経ずして、貧弱な山容になってしまう恐れが濃厚です。
 
山を追われた熊は何処で何して生きてゆくと思いますか。木の根や幹をかじります。
大きな銘木が立ったまま枯れてゆきます。人里が荒されてきます。

それよりも、椎葉の日添地区を襲って、作ったばかりの林道がつかえない原因を作った土石流の原因が、時雨岳の開発にあることを認識しておられるでしょうか。
あの山を切れば、必ず土石流を引きおこします。
 
もう一つ、土石流の主原因は、林道だということをご存知でしょうか?
横才川の周辺のように、人家のない山奥なら、林道被害ぐらいで済みますが、奥椎葉の山郷は、人の生活がかかっています。

今回、復興の貴重な時間を割いていただいた消防団の皆様は、土石流の現場を見られた方が多いとおもいます。
土石流は発生したら、下の本流まで止まりません。

そして、弱いところを作ったら、見逃してはくれません。
 人目があろうと、人目につかなかろうと、其処にはエコひいきも、運もありません。
弱かったらながされるだけです。

私は平成5年8月の、台風7号のとき、日之影川周辺で発生した、200箇所以上の土石流の現場を歩いて、ビデオで記録しました。

土石流のメカニズムが大体わかっているつもりです。

あのとき、流されたところと、起きなかったところを比較して、危険箇所を指摘することができます。

流れやすい地質、新しい伐採場所、間伐してない人工林、粗悪な林道、ある傾斜をもったそれらの場所。 
時雨岳や、白鳥山で、心当たりがあるはずです。

2度、3度、 もう上椎葉の人たちに、これ以上の苦しみをあたえてはいけません。


 話は現場に戻ります。
10万本のお花畑。 斜面の5分の1ぐらいが殆ど山シャクヤクのお花畑、熊の糞を写したところでしたね。

自分が遭難していることも忘れて、またシャクヤクを写す。
頂点になるようなところを抜けようとしたら、其処にも真っ白な白骨死体。

ネットの入り口と出口は、皆同じようなことを考えているのだな
これはカモシカ、一寸のへまで命を落としてしまわなければならない。

此処にも、すっぽ抜けたぺグが2本飛ばされていました。
 尾根に出ました。広い尾根です。竹が払われて道が作ってあります。 あの工作物のある所では、とうとう道を見つけたけれど、広い尾根で、何時見失うかわからないような、貧弱なものです。

立ち木も、かなり大きなのが生えていますが、雨宿りできそうな、ところがなかなか見つからない。
倒木も中にはあるけれど、今夜から雨。

何とか雨宿りできる良い倒木を見つけなければ、ずぶ濡れになれば、間違いなく「疲労凍死」良い宿が見つかるかどうかが生死の分かれ道。

大きな倒木に葉を敷き詰め2日間、雨風をしのいだ

どうしても良い倒木が欲しい。 
道は1時間も歩いたら、もうはっきりしなくなった。
中央が割れて、おわん上にかぶさった根上がりの倒木が見つかった。
時間はまだ3時、後4時間はあるいてもよいが、そのとき雨宿りする銘木がなかったら、其れは死を意味する。

夜明けとともに歩き始めて、余力は殆どないが、今なら何とか屋根葺きが出来そう。
屋根に載せるのには、あちこちに以上繁殖している「バイケイソウ」がいい。
 
何処でもあるといっても、いざとなるとそう集められるものではない。
多少採取場を広げ、目標を見失わないように、集められるだけは集めた。

木の枝も欲しいけれど、低いところにはないし、あっても刃物がない、もぬけのような体力ではもう親指の大きさが折れない。
 
丁寧に、丁寧に中央の割れ目にありったけの葉っぱを重ね、それでも漏ってくるのは仕方がない。
頭、胸、大事なところは漏らさないように、下にも敷いた。
出来上がったらまたビデオ、私はこの中で死ぬかもしれないけれど、あの熊の写真は死後でも、誰か人手で見つけて欲しい。
撮影が終わったが、スイッチは切ったつもりが切れていなかった。

1時間ぐらいたって、テープの終わる音。 
あしまった、切りそこなっていた。もう雨が降っている。

80センチ幅、1メートルの高さの家で、濡れないようにカメラを操作することは出来ません。 

多分これでツユつき、雨があがっても、当分はつかえないでしょう。
気象条件はすごく厳しい、 言い残したいことを吹き込んでおけばよかったと思ったけれど、もう無理でしょう。
 
雨は本降りになって、隙間から襲いかかってきます
お粗末だけど、屋根を葺いたから、直撃は免れています。

帽子の上から被ったポリ袋、ときどき結露した冷たい雫が頬を伝わりますが、吐く息で、顔に暖房が効いて、此処だけは寒さ知らず、胸からうえも、プラスチックのやや厚い買い物袋に両肘を張って、しっかり首のところに押さえつけました。

腹から下は、こぼれてくる雫で、ぐっしょり濡れてしまったようですが、逃げ場がありません。 

寒いです、 がたがた震えています。

これで終わりかもしれないな。 言い残したいことをビデオに録音しなかったことが悔やまれます。 

何よりも40メートルの距離から、たっぷり2分は写したはずですから、何とか人に伝えたい。
 
こんなところで死んだら、捜索も大変だろうし、見つかる可能性も当分は、無理の可能性のほうが大きいだろう。
この大事なテープは、自分の手で持ち帰らなければ、一緒に朽ちてしまうでしょう。
この幻のテープは、私にとって、命と同じくらいに大事なもの、其れは今後私の全ての記録が、公表されたとき、明らかになるはずです。
 雨は一晩降り続きました。 でも、直撃を受けず、ぐちょぐちょになったとはいえ、衣服、特に厚手のズボンは、雫の冷却力に負けなで、体温をカバーしてくれたと思います。

一番危険だった、始めの一晩は、生き延びたようです。

 3日目、雨に冷たい風が加わって、南よりの風が容赦なく、吹き付けてきます。
風対策に立てた、バイケイソウの垣根は、雨の吹き込みを防ぐのに、大変効果がありました。
雫になって落ちる水滴は、完璧な屋根がないと、漏りますが、横からこぼれこむということはなかったと思います。
 13日の2時ごろ、雨間が出来て、もう一度瓦の補修、雫は落とさせないぞ、もうバイケイソウは、近くにはないけど、丁寧に重ね合わせて、着ているものも一応全部脱いで、立ち木にまきつけて、タオルを絞るように、捻りましたが、若い頃の力は出てきません、

思ったとおりの、絞り切る力はありませんが、絞りたてを広げて着ると、暖かく体を包んでくれました。  
さっぱりした感じです。しばらくしてまた雨が降り始めましたが、寝床で休めそうです。 
でもよく寝ました。一日20時間は寝ていたと思います。
 
13日も降り続いて、14日 今日は日曜のはず。 
皆さんが必死になって探してくれているに違いない。 
起きてみると、夜が明けたかもわからないくらい、深いガスがかかって、濃い雲が覆っているようです。

今日も雨か。降る雨に濡れたら、抵抗できず、疲労凍死。
やっぱり安全なところで体力の浪費を防ぎながら、雨の心配がなくなったら、自分の足で林道まで出る。

あと半日で出られると思っていました。 
日曜日も寝とおすつもりで、寝返りも打てない窮屈な寝床にもぐりこみました。 
ふと目を覚ましてみると、周辺が明るくなっています。

もう一日すぎて月曜日になっていたのか、日曜日の午後だったのか、判然としないのですが、天気になったら歩かなければ・・・・・。立ち上がると足がよろめいていました。

遠くでヘリコブターの音がしているようです。  
探してくれているのだな。 でも私のいるところから、姿は見えません。

周辺の木も大きくて、特に、雨宿りのできる木を見つけるのに、重点をおいたので、景色も地形もわかりません。 自分が何処にいるのかさえわからない。

へりコブターに見つけてもらうには、明るいところに出なければならないけど、あの熊のいたところまで引き返せば、300メートル四方の空き地はあるけれど、其処まで登り返す元気がない。
 
古い足跡を頼りに、尾根に入ってみると、其れはどの尾根に入っても、最後は谷、水こそ全ての谷に豊富にあるけれど、それから下は、滝や崖で下れない。

仕方なく谷を登り返す、なだらかな所まであがって、隣の尾根へ、本当は椎葉、多分不土野に出るはず、なるだけ左へ、左へ移り変わっていかなければならないのに、こちらは高くなる一方。
どうしても低いほうに足が向いてしまいます。

何処でも林道に出さえしたら、後は平地が続くから。
あのきつい登り、足がきついともいわずに、頑張ってくれています。

14日だか、15日だか、1時に歩き始めて7時半、とうとう脱出できないどころか、登り返すのも億劫な滝に出てしまいました。

滝の周辺は冷えて寒いけれど、雨の心配はなさそうだから、何処でも寝られるようになっています。

石ころばかりの地面、寝床に敷く柴の葉も、とる力もないまま、石の上に仰向けになりました。
昨日までよりも、手足がのびのび出せるだけでも幸せです。 
あの2枚のポリ袋が頼りです。 あの二つの袋は、命を守るための第一の功労者。
 雨のない寒さはなんともありません。今夜もかるーく寝付きました。

明日こそ脱出できる日だ、 目がさめた、水があるから久しぶりに顔を洗いました

寝床の片付けも、着替えもいりません。トイレも食べてないから無用です。

荷物は、夕べ枕にした、カメラの入った、バックひとつ、ひょいと肩に担げば、旅したく完了、5時半宿泊地を出発しました。
 
昨日は昼から歩いたのに、林道はおろか、山道すら見つけ出すことさえ出来ませんでした。
この山は山容事態が大きくて全ては急な渓谷に切れ落ちている。 

それに人工林ながらかなりの年数が経って、手入れに入山することも少なく、付いている足跡が古く、余り信用できない。 

私がビバークしたあの尾根は、球磨に下りているに違いない。あの尾根よりも左側に下りなければという意識が、ずっとつきまとっていました。
 
でも今日はどうしても林道に出る。体力のほうはまだ頑張れそうだけど、天気がそう続くはずがない。雨が降ったらもうお仕舞だから。
 
まだ何回も何回も、沢に降りては引き返し、谷に突き当たっては、坂のぼり、一体何回ジグザグしたかわかりません。
 
 地図があったら地形もわかったろうに、来たこともない、話に聞いたこともない山が、こんなに、ややこしいとは、 もう、右にも、左にも切れない大きな尾根、林道まで休みなく続く尾根、其れを見つけるしかない。

あの傷だらけの私の足が、音もあげず、痛みひとついわず、馬鹿な主人の命令のままに、忠実に歩いてくれました。

どうしても今日はという思いが、5分と休みを取りませんでした。 
腰を下ろしたこともありません。全てが生還のために、協力したという感じです。
 
そしてとうとう太い尾根に行き着きました。
それでも右に左に分岐しようとする尾根、すかしたり振り返ったり、狂わないように確かめながら、とうとう4時目的の林道につきました。

5時半から16時、歩き続けた10時間、明るくなった空間に、ひと叢のススキが生え、切り倒してありました。
いい具合に乾燥して、どうぞといわんばかりに、広がっていました。

ごろりと寝転んだ寝心地のよさ、上からは太陽が降り注ぎ、生きて帰ってよかった。ビデオカメラも無傷でつれてかえりました。

皆さん何処で探しているかな。
本当に心配かけてすみません。随分疲れられたことでしょう。 皆さんが探し疲れているとき、二日半も寝転んで、時を待ちました。

屋根のないところで、雨に打たれたらお仕舞、無駄な体力の浪費は凍死に繋がる。
先人の教訓を胸にたたんで、慌てることがなかったのがよかったと思います。
 
とても暖かな寝床で20分。 まだ歩かなければなりません。
林道に出たら、昼であれ、夜であれもう道を失うことはありません。 
ちょうどこの高度は、藤の花が真っ盛り、私たちは藤の花はてんぷらにして食べます。

若い部分を摘んで口に入れました。 最後に食べたのは、11日の昼でした。
腹は減っていたけど、そう苦しいと思ったことはありませんでした。

初めて出会った食べ物、でも食べられません。 
道の傍らに、イタドリが生えています。これは子供の頃、生で皮をむいてよく食べていました。 

噛んで見るとあのすっぱさが、空っぽの胃液に反応して、倍加された酸が強烈に反応して、受け付けられたものではありません。 食べ物はもう諦めました。

道に出てきさえしたら、まだ一日や二日は歩けるつもり。
 疲れたらひっくり返り、20分そこそこでまた歩き始める。

谷の合流点の道も二股分かれているところで、ボツボツ人家も近くなった気配を感じながら、3回目の休養、

ちょうど5時、目覚まし時計もなし、どのくらい寝たかは、目が覚めたときみる腕時計。自由に寝かせていたら切りがないので、大体20分ぐらいで目が覚めていました。
又歩かなければ、人里に近づくことは出来ないから、頑張って30分。

何か水音と違う気配。車が来たのではないか?・・・・・・

案の定軽トラです。これで長い歩きから開放される。 

立ち上がっても足はふらついていない。 よく頑張ったなぁー 食はなくても、ひもじくて、力が出ないなんて思いは、余り感じなかったようです。
 
「遭難している者ですが」
びっくりしていました。

断られても、荷台に強引に乗せてもらおうと、手をかけていました。
助手席に乗せてくれてくれました。

この人は、変なところに人が寝ているな、釣りにくる人が疲れてごろねしているのかな、と思ったそうです。
「エノハ釣りですか、美しい谷が一杯ありますね、魚も」
その人は山の見回りにきて、時間になったから、帰りかけていたそうです。

この山系で、こんな大騒ぎが起きているということは、この人は知りませんでした。
民間の人どころか、連れて行ってもらった、多良木警察の方も、ご存知なかったようです。


そういえば、ヘリコブターが捜索しているらしい音は何度か聞きましたが、その姿を見ることは出来ませんでした。
山が大きくて、木も大きい、深い樹海の中だから、木のない広場でも出ないと、見つけることは出来ないでしょう。 
雨さえ降らなければ、何処で寝ても構わないが、雨宿りの出来ない、ずぶ濡れは間違いなく凍死。 天気が快復するまで、1日20時間も、窮屈な倒木の下で、寝て機会を待ちました。 
 

運転手さんが車を止めて、「何か飲みませんか」
そういえば私は財布も、お金も1円も持っていません。
ご好意に甘えて、甘いジュースを買ってもらいました。

バイケイソウの葉を伝ってくる雫を、指先につけて、口を潤した2日間、でもそんなに必要とは思わなかったけれど、出ている手の色を見て、驚きました。

黒ずんだこげ茶色、血が濃くなって、酸素が回っていない。内臓もおかしくなってしまった、水が足りないのかも知れないと思いましたが、何よりも甘いものが欲しい
 
持っているのはカメラの入ったバックが1個。このカメラの中には、何よりも大切な月の輪熊の写真が入っている。
たとえ死んでも、この写真だけは、人の手に渡したい。
ネットに掛かった鹿と同じように、白骨死体となっても、映像は無事に人手に渡るといいな、でも此処では、人に見つけられることが出来るかな? いや難しい。
どうしても自分の手で、持ち出すよりほかはない。あの雨の中で、がががた震えながら、ずっとそう思っていました。
私に最後まで冷静に、生き抜く力を与えてくれたのは、初めて昼の日中に、少なくとも2分間、木に成りすまして、じーっとボーズをとり続けてくれた。

だから、であった人、山から車で送ってくださった、森林組合の「中村龍二さん」次に派出所からパトカーに乗せてくださって、病院まで付き添い、親切に御世話していただいた、おまわりさん。  多良木病院の、救急救命室の師長さん、担当の岩下先生。みんな恩人の方たちに、真っ先に、月の輪熊を写して来ましたといいました。
 
この事は、これから先私の調べ上げた、自然生態系の発表で、とても重要な意義をもっているからです。
 そのことは又後でお知らせしようと思っています。

山からつれて帰っていただいた、運転手さんに、派出所で引き継いでいただいたとき、お名前を教えてくださいと懇願しましたが、こんなことは当たり前だと、固辞されましたが、しばらく経ってようやく聞き出すことが出来ました。

遭難以来、5日間も何も食べず、歩き続けて、此処まで出てきたと知って、びっくりしていました。
 若し私が見つかる前に、自分の足で人家のある所に出てきて、村人に事情を聞かれ、5日間も何も食べていないのなら、何か柔らかいものを出してもらったら、胃がどうなっていたか判りません。
 
多良木警察署から、宮崎県の警察に保護した旨情報が流れたのは、5時30分頃、まだ現場にいた捜索隊にも、次々と朗報が伝わっていきました。

特に遭難現場が時雨岳付近とわかって、特に椎葉村の消防隊の方には、大変ご苦労をおかけして申し訳ありません。

本当に有難うございました。厚くお礼を申し上げます。

時雨岳がどんな山だったか、捜索された方に色々聞かせてもらいました。 
場所によっては全くの秘境だったときいています。険しい谷や、深い竹薮、大変だったでしょう。
 
私は深い霧の中、リュックを探すため、使った尾根の方向を、東向きとばかり思っていました。
たとえ、磁石があったとしても、東方向に上ったり降りたりしている内に、180度も方向違いの尾根に迷い込み、一晩のうち、熊本県球磨郡の横才川、つまり球磨川の源流付近に迷い込んでいました。

そして不思議な対面があったのですが、 この話は後でお話するつもりです。

発見情報が伝わると崎山法子さんと、次男の純一君が、午後9時過ぎにはもう病院にきてくれました。 
嬉しくて、心強くて、本当に心配や、迷惑をかけたことを詫びました。

そして、たった一つの荷物、カメラの入ったバックを持って帰ってもらいました。
「大事な、月の輪熊の写真が写っているからな」 ツユつきになっているから此処では再生できません。


病院では始めはお茶も飲めず水も飲めず、点滴。
2日目、4階の一般病棟に移って、甘いプリン、そしてお茶味のゼリーが出ました。お茶味のゼリーは、何処かが拒否しています。
 
この日は、大阪から取るものもとりあえず、甥の進也君と、長女の美代子さんが来てくれて、身の回りが片付きましたが、進也君が写真を預かってきています。

「叔父さん、力落さんでね、あの写真は木の株だった」
「そうか、目があまり良くないからな」

皆さんに会う人ごとに、「熊を写して来ました。」自慢げに吹聴した手前、恥ずかしい。

3日目ようやく重湯、米の味がとてもおいしかった。
ようやく人間社会に帰れたという、喜びと安堵感、消灯放送が流れ、寝ろうとした頃から胃が痛み始めました。
痛み出したのは内臓ばかりではありません。

膝のまわりが、じりじり痛い。あの山を登ったり下ったり、普段では考えられないような無理を泣き言ひとつ言わず頑張ってくれたのに、今夜の痛みには参りました。

痛みはもう一箇所、両足の指の先が足の置き場もないくらい、痛みました。
昼間は何のこともなかったのに・・・・・。

緊張が解けたというのか、休んでもいいよと許可が出たのか。一切、わがままを押さえて、生還のために、ありったけの力を振り絞って頑張ってくれた体の全ての機関に、ようやく休養許可が出たという感じでした。
 
痛くても、一晩我慢しました。 
翌日になると、痛みが消える,夜になると痛み出す。

人の生理は面白いですね。 
ただ、心配なのはトイレに,行ったとき、ビバーク中に見た手の甲と同じような色をした便が出たことです。 

便が黒いときは、胃から出血しているときと聞いたことがあり、胃の付近が痛む、5日間何も食べないで、雨の降ったときは丸二日間、水も飲んでいない、自律神経が悪くなくても、空っぽの胃に消化液。

胃から出た嘔吐ぶつが、もちもちした塊、どうかなっているだろうと、心配していたが、矢張り検査の結果、十二指腸腸に潰ようが出来ているとの事、ストレスが原因とか。

しかし、これくらいで収まってよかったと思います。
 
 両足の裏は、膝の手術以来、麻痺したのか痺れたのか、触ってみても、まるで爪でも触るように、ごつごつと、自分の分身ではない感覚、だからと言って労わってマッサージしたり、擦ったりした記憶がない。

寝台の角において、初めて手を添えてみました。冷たくて刺々しくて、ほかにこんな感覚の部位はないけど、丹念にもんだり、擦ったりしていく内に、柔らか味が出てきて、暖かくなるのを覚えました。

そしたら、ヒビでも入ったのではと思っていた親指の痛みがスーッと消えていました。

今までたった一度も,労わってもらったことのない足の裏、随分冷たい主人だと思っていたに違いありません。それから事あるごとに、手を添えるようになりました。
このことで新しく診察を受ける必要はなくなったようです。
 


5月29日(月)退院です。

4階の宿院の皆様、大変お世話になりました。
迎えにきてくれた次男夫婦が、自宅まで車で4時間の道のりの間、詳しく捜索の話を聞かせてくれました。

次男も一つ間違えば命がない時雨岳の奥深くに迷い込んだ時、たくさんの鹿とともに熊らしい糞や皮のはげた痕跡など見つけたようです。

糞はもとより、越冬穴、ねぐら、水場、臭い、山には1度しか登ったことのない次男が、3時間も行方不明になるように、人跡未踏とも思われるところを探し回って、皆さんをはらはらさせたようですが、此処は月の輪熊にとって、最後の楽園のひとつと、みてとったようです。
 
私の写した写真は、木の株だったと、ビデオを見た人は全部そう思ったと言います。

「今度は、俺が写して来てやる」
月の輪熊の話を私から聞くと、世間一般の人のように、馬鹿にして聞いてくれなかった次男のこの変わりよう。

此処には目に見えない何かの力が働いている、そして私たちに、助けを求めている。


本当にみなさん、ご苦労をおかけし、心配をおかけし、寝る時間も惜しんで、捜索に参加してくださった、山友達の皆さん、其れを支援してくださった、炊き出しや、情報収集で的確な活動を計画してくださった、ベテランの皆さん。特に2次災害の起きないように、支援し、温かく見守ってくださった、延岡署の皆さん。本当に有難うございました。

遭難に関する、報告はこれで終わらせていただきますが、まだ多くの疑問や、聞きたいことが一杯残っているかと思います。

私にも判らないことが一杯あります。
質問や聞きたいことがありましたら、どうぞ遠慮なく、聞いてください。

                            2006年6月10日               猪須 克己
宮崎の県鳥コシジロヤマドリ

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