★宮崎の祭り★ |
宮崎の祭り★神代の昔から |
宮崎の祭りのページ |
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| 宮崎の祭りの規模は、総じて大きくありません。 宮崎の祭りの特徴は農魚村などと深く結びついているところにあります。宮崎県には、宮崎神宮や太平洋の荒波の侵食によりできた深い洞窟状の鵜戸神宮をはじめ、県内至るところにたくさんの神社があります。 それら神社の多さに比例して春秋を中心に、宮崎県の各地で祭りが行われます。 その多くは五穀豊穣を祈ったり豊作に感謝するなど農村集落と深く結びついています。 その他、盆を中心に盆踊りがメインになる夏祭りも盛んに行われます。 しかしながら、東北の3大祭りや阿波踊り、博多どんたく、京都葵祭り、時代祭り、札幌雪祭りなどなど、「宮崎と言えば○○祭り」と言えるような全国的に知れ渡っている祭りはありません。 ここでは宮崎県で行われている主な祭りを紹介します。 |
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宮崎神宮 神社です。「神武さま」または「神武さん」と呼ばれ親しまれています。江戸の末期までは宮崎神社、宮崎宮などと呼ばれていました。。 神武天皇の孫で、筑紫を開拓した健磐龍命が創建したと伝えられていて、かなり古い歴史を持ちますが、正確な造営時期・由緒は不明です。文献に登場する最も古い記録は、建久8年(1197年)に地元の地頭の土持太郎信綱が現在地に社殿を造営したという史実が残っています。このころには、神武天皇が東征する前に宮を置いていた高千穂宮が宮崎の神宮・下北方一帯であるという説が定着していました。近くには皇居跡と伝えられる皇宮屋(こぐや)もあります。神武天皇に対する崇敬により、歴代の領主から深い崇敬を集めています。明治維新により、神武天皇の最初の宮の地として重視されるようになり、1898年には高木兼寛らを中心に神武天皇御降誕大祭会が組織され、全国から多くの寄付を集め、現在の本格的な社殿が整備され、宮崎神宮と改称されました。 先週の飫肥城下町といい、今週の宮崎神宮大祭といい、どちらも宮崎を代表する祭りです。 しかし、私、恥ずかしながら宮崎県に長らく住んでいながら、どちらの祭りも今年はじめて見学しました。なぜなら、折角の日曜日に人ごみの中で祭りを見物するより、大海原で大自然を相手に糸を垂れているかグランドで白球を追いかけていた方が、はるかに私にとって健康的で楽しい時間でした。海は今、秋のシーズンを迎え活気付いています。正直な所、祭り見物など眼中になかったと言うのが本音です。それが、何故こんなに祭りや花々を追い出したかと言いますと、やっぱりホームページを作り始めたからです。まだ、1年と少しですが、祭りもそうですが、今まで全く見えていなかったいろいろなものが見えてきました。つまり、視野がひろがりましたね。私自身にとって非常に大きなことだと思っています。はじめての経験が非常に新鮮で、時にはカルチャーショックも味わっています。 祭り初日の風景。スタート地点の宮崎神宮から約1km少しの橘通リ5丁目付近です。祭り初日の土曜日の午後ですが、意外にも宮崎神宮通りや宮崎市の中心部橘通り3丁目付近と比べて見物客はまばら。 すぐ側に、横断歩道橋があり格好の撮影ポイントと思って上から待っていたところ、御神体を上から撮るのはご法度とのこと。仕方なく沿道から撮影しました。それでも前へ前へと争うこともなくのんびりと、撮影することができました。 おっと、品の良さそうなご夫婦が歩いてきました。近くに来ましたので見ると、あの有名な中山恭子・内閣総理大臣補佐官ではありませんか。その隣りはご主人の元文部科学大臣の中山 成彬 氏です。 か細い声にキャシャな体形、歳も昭和15年生だし、弱々しい印象がありましたが、なかなかの健脚です。 神武さまにはこう言う人が参加するのかと、はじめての見物で驚きました。一説には、最終日は東国原知事も歩くと言う噂がありましたが、実現はしませんでした。 ところが、沿道の見物風景と同様にあまりにのんびりしていてカメラの充電を怠っていました。気づいたのは後の祭りです。結局、初日、撮影できた写真はこれだけ。「なんと愚かなことを」・・・・です。 仕方なく最終日も撮ることに決めました。 この神宮大祭の発展を願って、平成15年から夕方から夜にかけて高千穂通りを歩行者天国にして「神武さま広場」として、郷土芸能や神楽等の伝統文化の披露やマグロの解体実演等など盛りだくさんのイベントが開催されています。 宮崎神宮大祭は、一般に地元の人からは、「神武さま」「神武さん」と呼ばれ親しまれています。この祭りがくると寒くなったり雨が降ったりと言うジンクスがありました。例年10月下旬の後の土日の2日間に渡って行われ、御神幸行列と鎌倉時代の装束を身にまとった武士やお公家さん、「ミスシャンシャン馬」、神武天皇の歴史背景を考慮・参考にした「おきよ丸」に象徴される「よみがえる古代・神々」の行列で行われます。 神武さまは年に一度宮崎神宮にお参りできない遠くの人のところへ出かけて行かれる神事から始まった五穀豊穣を祝うお祭りです。 ひと昔前までは、「博多どんたく」、「唐津おくんち」とともに九州3大祭りのひとつと言われ、宮崎周辺の町や村からたくさんの見物客が押し寄せました。しかし、今年はじめて観ましたが、娯楽が多様化した現代のテンポや変わり映えしない祭りの形態からは、マンネリの感は否めない印象を受けました。また、神様の行列なので仕方ないのかも知れませんが、お触れ(案内放送)が少なく、折角の時代絵巻も十分理解されずに行列が行き過ぎた感はぬぐえません。 折角の機会でしたので、今年の御旅所(神様が一泊される所)である瀬頭から、宮崎神宮まで約5km弱の道のりを行列と平行して歩きました。 で、パレードの区間を通して感じたことを率直に書こうと思います。気づいたのが両側通行規制され広々とした道路でさえ、行列がつかえて立ち往生する場面にしばしば出くわしたことです。さすがに、橘通リ3丁目の交差点付近は見物人が一番多く、行列も整然とし、各団体の演舞もみごとなものでしたが、江平を過ぎ神宮通リに入るころから、行列が止まったままで沿道の客との立ち話しや喫煙、座り込みなど緊張感まるでなしと言う姿を観るにつけ「何と言う祭りだろう。」と、言う怒りにも似た感情が腹の中で渦巻いていました。誘導がまずいのか、それが限界なのか、いつも見ていないので分かりませんが、しまりのない姿をさらすのは宮崎最大の祭りと言うにはお粗末過ぎると正直思いました。 ここ1年宮崎県内のいろいろな祭りを観てきました。前週の飫肥城下祭りでは、一番最後の演舞場では、どの団体も汗びっしょりになりながら日頃の練習の成果を披露した清々しい顔が印象的でした。夏のひょっとこ踊りでも最後はきちんとまとまって一斉にフィナーレを迎えました。何故、長い歴史と伝統のある宮崎神宮大祭の最後の部分が、あのように締りのない形で終わるのか不思議でなりません。終わりがすべてのイベントの成否を支配します。 祭りは、2日間に渡って行われます。宮崎神宮から出発した御神幸行列は、獅子舞を先頭に、鎌倉時代の装束や戦(いくさ)用の鎧兜(よろいかぶと)に身を包んで馬に乗った当時の武士やお公家さんが先陣を固め、その後を宮崎神宮の奉物を運ぶ神官が続き、宮崎神宮のご神体の神輿が、屈強な担ぎ手によって厳かに進みます。このご神体を祀る神輿、御鳳輦(ごほうれん)と言うそうですが、つまり手や肩で担いでいくもののことですね。頑丈な造りで見ていてもいかにも重そうです。 この御神幸行列は、一の鳥居から交通規制が敷かれた広々とした4車線の国道10号線を中心部に向かって南下、お旅所(神様のお宿)で一晩を過ごし、翌日同じ行程を引き返します。お旅所は隔年ごとに変わり、今年は瀬頭のお旅所に泊まられました。ここまで往復約9qは、行列を彩る4歳前後から小学校低学年の稚児たちにとってはかなりハードな距離でしょう。パレードは、市役所前、デパート前、江平5差路などのスポットで、獅子舞や民舞隊が出し物を披露します。特に神輿は、ただでさえ重いのに、広々した交差点を練り歩き、いや走り回るのですから、相当の体力を要します。一回り、ふた回り、三回りすると、汗びっしょりで担ぎ手の苦痛に顔をゆがめた光景は気の毒なほどでした。 一通り、宮崎神宮関係の行列が過ぎ行くと、この祭りのハイライト・晴れ着を身にまとったミス・シャンシャン馬の登場です。シャンシャン馬の由来については、このページの中ほどで説明しています。宮崎市内の企業6社から選ばれた綺麗どころ6名が、鈴の音とともに馬の背に乗り愛敬を振りまきますと、沿道から、「うわぁキレイ!」と言う感嘆の声とともに、なんとも言えないため息が漏れ聞こえます。 行列はさらに続き、今年はじめて都城市山之口町的野正八幡宮から県の無形文化財に指定されている弥五郎どんが参加、祭りに華を添えました。『弥五郎どんゆかりのものにふれると、一年を無病息災で過ごせる』と言う言い伝えがあり、江平5差路手前では、前がつかえて立ち往生している弥五郎どんをたくさんの人々が触れていました。この弥五郎どんは、南九州で3ヶ所にあり、ひとつは山之口町、ふたつ目は日南市飫肥の田之上八幡神社の10mはあろうかと言う巨大な弥五郎様、そして鹿児島県大隅町岩川八幡神社の3ヶ所で見ることができます。いずれも養老4(720)年に起った隼人の乱の時の隼人族の首長であった人物で、隼人族の怨霊を恐れ、石清水八幡で放生会を行なわせその際に隼人族の首長の大きな人形を造ったのが起源と言われています。
ホームページで「宮崎の祭り」をコンテンツに挙げている以上は、「飫肥城下祭り」を紹介しなければ、片手落ちでしょう。と言う訳で2007年10月21日(日)、前日から開催されている宮崎県南部に位置する日南市の飫肥の城下町に行ってきました。 朝、起きたのが10時でしたので呼び物の飫肥本町通りの市中パレードは大丈夫かなと、心配しましたが、市中パレードも含め何とか祭りの雰囲気だけは写真に収めることができました。 「飫肥城下祭り」は、今年が30回の節目の年に当たり、飫肥城に通じる大手門通りにはたくさんの露天が並び、足の踏み場もないほど訪れた人々で溢れごった返していました。 飫肥の町は、江戸時代に飫肥藩伊東家5万1千石の城下町として栄えました。 飫肥の町が城下町としての形を整えたのは、伊東氏と島津氏の戦いが終息した江戸時代初期で、二代目藩主祐慶の代に町割りが行われたと言われています。 城下町は城の位置するおよそ60mの小高い丘から南と東に延びています。大手門通りと横馬場通りと称される筋沿いには、比較的位の高い家臣の武家屋敷が並び、町の中心を貫く本町通りが町人町、その南から酒谷川で囲まれた地域には下級武士の屋敷が今も並んでいます。 戦後は、政治的にも文化的にも県南の中心的な存在でしたが、昭和25年(1950年)、飫肥、吾田、油津、東郷町が合併して誕生した日南市の時代になると、行政の中心が、吾田に移った関係で、飫肥の町は斜陽化が目立ってきました。 昭和52年(1977年)には飫肥城址と周辺の町並みが「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。翌53年には、地元で取れる樹齢100年を超える飫肥杉の巨木を材料に大手門が復元され、城下町としての町づくりがスタートしました。 「飫肥城下祭り」もこの頃始まりました。 地元の人たちも町並み保存のために立ち上がり、日本風建築、軒の高さの制限、派手な広告の禁止、電柱の埋設、昔風の街路灯の設置等など、町並み保存のための景観造りが着々と進みました。 いまでは、町の中心を通る本町通りも道幅を広げ、白壁や屋根が町人町としての風情を醸し出しています。また南北に足を踏み入れると、上級、下級の武家屋敷が並び、その塀に沿って続く掘割には大小、色とりどりの錦鯉があそび、その様はまさ「九州の小京都」として脚光を浴び近年、多くの人々が訪れ、賑わいを呈しています。 「飫肥城下祭り」は、今年30回の記念の年を迎え、飫肥を舞台に、20日(土)の前夜祭に引き続き21日(日)の本祭と、2日間に渡って行われました。 期間中、のろしを揚げる会や祭りを触れて回る早馬、四半的大会(小型の弓矢)、昼市・夜市、野点や地元ラジオの公開録音、歌謡ショーなど盛りだくさんの催しが行われましたが、一番の目玉は2日目に行われる市中パレードです。酒谷川に架かる稲荷下橋から本町橋の間約1kmが交通規制され、約50の団体が、途中のポイントで踊りや演舞を披露しながらのパレードは、さすが城下祭りだけあり、時代絵巻を彷彿とさせます。県の無形文化財に指定されている泰平踊や風田音頭などの優雅な演舞と対照的に現代のテンポの良い踊り、姉妹都市・沖縄那覇からのエイサーなどバラエティに富んだ出し物をミックスし、約3時間見応えのあるパレードが続きました。 近年、観光客も多く訪れています。九州の小京都と言われる町並みを、時間をみてゆっくり散策してみようと思っています。
2007年8月4日、「ひょっとこ夏祭り」が行われる宮崎県日向市に行ってきました。 そう、この踊りの発祥の地はこの日向市なのです。日向市大字塩見の永田地区がその発祥の地であり、その踊りの中心的な人物が眼科医橘公行氏と言われています。時は江戸時代の末期から明治時代の初期に掛けてです。しかしながら、橘医師が数百年前から伝わっていた村々の神楽にヒントを得て現在の踊りにしたという説や、橘医師が学校在学中に古都の神楽を伝えたと言う説などがあり、いつの頃から踊られていたのかはっきりしたことはわかりません。<BR> 昔は、初午の日に踊られていたそうですが、現在は豊作を祝う踊りとして、また商売繁盛の踊りとして、日向市を代表する踊りになっています。 赤い着物に白い帯、白いフンドシ、腰にはひょうたんをぶら下げ、地下足袋をはいて、マメシボリの手ぬぐいをかぶったキツネ、ヒヨットコそしてオカメが、笛、鐘、太鼓の軽快なリズムにのって、手、足、首と体全体を使ってコミカルに踊る。その踊りはちょっぴりエロチックでユーモアあふれるものです。 同じ顔がないのが、ひょっとこ面のおもしろさです。 日向ひょっとこ夏祭りを盛り上げる、ユニークな表情のお面には、おかめ、ひょっとこ、狐あわせて18種類の型がありますが、顔の描き方や仕上げが微妙に異なるため、同じものはほとんどできないとか。 日向ひょっとこ面の材料は石粉粘土と日向美々津和紙。特に裏地の仕上には日向美々津和紙を幾層にも重ねて丹念に仕上ます。 8月4日の1日限りの祭りとなりました。日向市役所をメイン会場に、昼前から太鼓演奏や餅まき、ひょっとこ踊り個人戦や、ひょっとこ踊り発祥の地の「橘保存会」有志の模範演技などが行われました。クライマックスは夜の市中パレードです。今年は南は鹿児島から九州各地、北は北海道・帯広まで、はたまた米国、豪、愛、英国、中国などの国際連や地元日向市の踊り子連を含め73連約1500人がパレードに参加しました。 市役所前広場のメインステージがコースに入っていて、保存会のメンバーなどから踊り子連の審査を受け、市街地6ヶ所に分かれて、18時20分一斉にパレードがスタートしました。 キツネが連を引っ張り、寄り添うようにオカメが控えめに踊り、その後ろをひょっとこが精力的に、たまに腰をフリフリ踊る姿に、会場や沿道を埋めた観客から笑い声が上がります。市街地の道路が狭いため、目の前を通過していく踊り子連からは熱気が伝わり、休憩地点では、息が上がっている踊り手も。それだけ激しく全身を使った踊りでもあります。 パレードコースでは、特製のメダルが販売されていて、素晴らしい踊り手に手渡し、メダルの数を最も多く獲得した踊り手が「踊り子大賞」の栄誉に浴します。 しかし、なんと言っても人気を独占するのは、幼稚園、保育園のちびっ子連です。大人顔負け、お母さんたちが赤面するような腰の動きに沿道から「かわいい」と言う声が掛ります。小学生にもなると、踊りは堂に入ったもので、沿道からため息も漏れてきます。 こうして、スタートしたそれぞれの連は、約2時間、市中を踊り通しスタート地点でフィ二ッシュを迎えます。 答えは、開会式が始まって解けました。パレードは、開会式終了後、市街地各所に踊り手が散って、テンテコテンの笛、太鼓、鐘の音が鳴り出すと同時にスタートと、知りました。そして、ステージは、周回コースの一部で、ここで踊りの審査が行われる寸法です。踊り手にとって、一番の腕の見せ所、観客にとっては居ながらにして、全ての連を観る事が出来る特等席だったのです。 初めてこの祭りを観て私なりの感想を書かせていただきます。 これだけ多くの人々の心を一瞬にして掴むひょっとこ踊りですが、今年24回を迎えるにしては、率直に言って祭りの規模が小さいですね。県内でも私みたいに、本場の祭りを観たことがない人々がほとんどです。そんな本場の踊りを観たことがない人が、宴会や催しの席で腰を卑猥に振るのがひょつとこ踊りと勘違いしている、そんな光景は良く見かけます。 市街地を周回して約2時間でパレードが終了。あとはお茶を濁す程度の表彰式。確かに踊り自体が激しく体力を相当使いますが、踊り手は物足りないはず。ましてや、1年に1度、遠くから本場での踊りを楽しみに、貸し切りバスを仕立てて来た人々が、祭りが終わったらさっさと帰ってしまう光景を見て非常にもったいない気がしました。 また、パレードのコースが日向市街地独特の狭い路地のような所ばかりで、見物するのも踊るのも混雑至極では興ざめしてしまいます。観ている人が、飛び入りでドンドン参加するぐらいでないと・・・・。しかも、コースの一部は照明もない暗がり。これでは祭りの性格が問われます。動植物は器に比例して大きくもなり、育ちきれないこともあります。今や日本中にその名が轟いているひょっとこ踊り。しかし、日向市がその発祥の地であると知っている人がどれだけいるのか。 PR不足は明白です。こんな素晴らしい観光資源を1日や2日で終わらせるのは、何度も書きますが非常にもったいないと強く思います。もっと祭りの器を大きくして、たとえば10号線を止めて、仮設のメインスタンドを作り、3日3晩踊り明かすくらいのスケールでやれば、全国からたくさんの人々が日向市にやってくるはずです。 たった1500人程度が踊るくらいで、コースが大混雑するようでは、祭りのイメージは上がりません。
『おだいっさん』の名で延岡市民、宮崎県民はもとより西日本各地から訪れる善男男女に親しまれている延岡の大師のまつりの起源は、意外に古く明治22(1889)年、四国霊場88ケ所を形どった石仏像を延岡とその近郷在住の町村の人たちが、我が村の守護神(大師)として、五穀豊穣、家内安全を祈って奉納し、春を迎えた喜びに合わせて、旧暦の3月21日に参拝したところから盛んになっていったと伝えられています。 大正7年に大師堂が建立され、さらに昭和32年、信者や近郷近在の有志から広く浄財が寄せられ、「弘法大師銅像」が建立されたことにより、従来の信者に加え、県内一円はもとより、四国・九州各地から「今山大師祭」として参拝客で賑わうようになりましたた。参拝客は、今山の頂上から延岡市内を見下ろして立っている弘法大師像まで長い階段を登り手を合わせます。 この大師像が建立されて今年は丁度50年の節目の年を迎えます。 高さ17m(台座からは11m、足の大きさは62文(1.25m)で重さ11トンの日本一の弘法大師銅像をささえています。 今年は「ありがとう50年、これから50年、感謝と祈り、お接待!」がテーマ。延岡の各町ごとの大師講は、弘法大師像の小堂を持ち出し、それぞれの地区でお接待をします。。 この「おだいっさん」は、私たちには、大変楽しみなお祭りでした。 ひとつには、「マチ」に行けることです。それもバスに乗って。二つには、お接待所に行けば、赤飯や障子紙に包んだお菓子がもらえます。そして3つ目は見立て細工を見ることが出来ることです。この見立て細工は、「ツクリモン」と言って、あり合わせの品物で腕を競い合いながら見立て細工を作り奉納するものですが、こうして、祭りに彩りを添える形で街中が賑わうようになりました。 昔は、私の実家の近くの商店にも3ヶ所ほど作られていました。娯楽が少なかった時代のこと、今見たら何と言うことはないのですが、当時はものすごく立派に見え何時間でも見ていたものでした。 特に、今山での大道芸やマジックなど、今で言うパフォーマンスには黒山の人だかりが出来て一番人気がありましたね。 警官もあまりの人の多さにお手上げの様子。折からの市議会選挙中で北上してきた候補者の車も人に囲まれ身動きが取れない状態です。最近の「おだいっさん」は、こんなに人出があるのかとびっくりしていたところ、「知事は何番目じゃろかい」「一番最後じゃが」「こんげ人が多いと見えんが」などなど。知事の話題が頻繁に出ます。近くの人に聞いてみたら、東国原知事がパレードに参加するともこと。 そうか。道理でこんなにも人が多いのかと納得しました。 それにしても凄い人気です。後日、新聞を読んだら、パレードの人出は例年の2倍以上だったとのこと。今までの「お大師祭り」で、延岡市長は大名行列で殿様役でパレードに参加していますが、宮崎県知事が「おだいっさん」に参加したことなど聞いたことがありません。しかもパレードに参加するとは。 「どうせ後の方だろう。時間があるかな、見れるかな」と、考えていると赤いジープの周りに人だかりが出来ているではありませんか。パレードが始まってまだ初めの方です。延岡市の首藤市長と車の上から手を振っています。 首藤市長が、延岡名産の「空飛ぶ新玉ねぎ」を振っています。たちまち周囲の観客が飛び出し道路は人・人・人・・・。収拾がつかない状態に陥りました。それにしてもこの人気はどうでしょう。「知事〜ちじ〜」「こっち向いて!」「頑張って!」「タノムヨー」などなど、あっちこっちから声が飛んでいました。 宮崎県知事選挙が終わって、延岡市民の前に姿を現すのははじめてです。また、延岡市民の東国原知事への得票率は50%を超えていました。同知事にとっては格好の御礼の場であったかもしれません。 上の写真は昭和30年頃の「おだいっさん」の風景です。今と全く変わらない賑やかさです。人々は、今山に登り五穀豊穣と家内安全を祈ったことでしょう。パレードや「おせったい」の心は今も綿々と続いています。 弘法大師の慈悲そのままに、祭りの伝統が脈々と受け継がれ時代の流れとともに祭りも変容しながら発展を遂げています。そう言えば今年は祭り期間中、雨が降りませんでした。珍しいことです。 弘法大師像がある今山に向かって登っていくと、途中から琵琶の音と釈文(しゃくもん)が聞こえてきます。懐かしい音色と“琵琶妙音曲”と言われる特徴あるダミ声。そう最後の盲目の琵琶僧と言われる延岡市山下町の長久山浄満寺住職・永田法順師(70)です。「お大師祭り」にはなくてはならない住職です。 同師は、幼い頃、病気で失明し13歳で仏の道に入りました。研ぎ澄まされた耳から経文を暗記し、指で触れながら琵琶を学んだ法順師は、若い頃から墨染めの衣に琵琶を背負い、杖を頼りに千軒近くの檀家を訪ねて、家内安全、無病息災の祈りを捧げてきました。檀家には、床の間に米・塩・水を供え、四方を浄めて経典を読み上げ、家屋敷の不浄を祓い、琵琶を奏して、仏教説話を易しく解いた釈文を語り、家内安全などを祈願します。 もともと江戸時代から、九州地方には、天台宗の僧籍を持つ盲僧たちが、檀家を訪ねて、家屋敷の不浄を祓い、琵琶を奏して家内安全を祈願する祈祷僧として活躍していました。この琵琶楽から江戸後期に薩摩琵琶が誕生し、北九州地方でも明治期になって筑前琵琶が生まれています。 昭和20年に比叡山に届けられた南九州地区の盲目の琵琶僧は120名と記録されていますが、現在では檀家を訪ねて歩いているのは永田さんただ1人になってしまいました。 このように檀家周りをする盲僧は、同師以外にいなく貴重な文化財として2001 年2 月「延岡市無形文化財」指定、2002 年10 月には「宮崎県無形文化財」に認定されています。 また、今まで釈文を研究することもなかったこの貴重な財産を後世に残そうと大阪芸術大学などが、鮮明な音源を録音し研究を続けています。
宮崎市から日南海岸の美しい景色を見ながら南下すること1時間。 長い鵜戸トンネルを抜けて側道を5分程走った岬の先端に、神武天皇の父君に当たるウガヤフキアエズノミコトを祭ったとされる鵜戸神宮があります。神殿は太平洋の荒波による侵食で出来た洞窟の中にあり、洞窟中ほどに豊玉姫命が御子育児のため、両乳房をくっつけて行かれたと、言い伝えのある『おちちいわ』があり安産、育児を願う人々の拠り所となっています。また、その岩のすき間から滴り落ちる水で作った『おちちあめ』が有名です。
かってシャンシャン馬道中の目的地だったのがこの鵜戸神宮です。宮崎や日南の農家では江戸の後期から大正の初め頃にかけて結婚すると鵜戸神宮にお参りする習わしがありました。 新婚のカップルは手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)にわらじ履きと言うたび姿で、宮崎からですと、七浦七峠の険しい山道を二日二夜かけて安産と育児祈願にお参りしていました。 《鵜戸さん参りは春三月よ 参るその日が御縁日・・・》と、全国的にも有名な民謡・「シャンシャン馬道中唄」にも歌われています。 シャンシャン馬とは、美しく飾った馬に花嫁を乗せて、花婿が手綱を取りながら鵜戸神宮へ向けて旅したもので、その時、馬に付けてあった鈴が、シャンシャンと道すがら鳴り続けていたことから「シャンシャン馬」と呼ばれるようになりました。 現在では、この風習はなくなりましたが、宮崎神宮大祭や「シャンシャン馬道中を再現する会」、「シャンシャン馬道中唄全国大会」など、観光行事のひとつとして組み入れられています。 鵜 戸 神 宮
全国から応募のあった中から、日南市出身で現在、千葉県在住の稲門啓明さん(24)と大場絵美さん(24)=神奈川県足柄上郡中井町のカップルが、結婚式を兼ね当時の衣装そのままに「シャンシャン馬道中」を再現しました。 新郎の啓明さんは物静かなシャイな感じの青年。新婦の絵美さんは名前のごとく絵のように美しい笑顔がすてきな女性です。 絵美さんは、「昨日、あんなに雨が降り心配していたけど、今日は晴れてシャンシャン馬に乗れ大満足です。ウェディングドレスもいいけど、この衣装は、昔からの伝統があり重みが違います。」と,満面に笑みを浮かべ話していました。 お二人の新婚旅行の行く先はグアム島とのこと。古式ゆかしい伝統の結婚式。いつまでもこの日のことは忘れることなく記憶に残ることでしょう。 鵜戸神宮は安産・育児の神様。元気な赤ちゃんを産んでまた訪れて下さい。いつまでもお幸せに!!
《綾雛山祭り》 今年こそ行って写真に納めようと、思っていました宮崎県東諸県郡綾町の「雛山(ひなやま)祭り」に今日(2月25日)行ってきました。あいにくの雨でしたが、多くの人々が訪れ、町の商店街を中心に作られた雛飾りを観て回り感嘆の声を挙げていました。「雛山」の展示数は、全部で18でしたが、時間の関係で7箇所しか見ることが出来ませんでした。下手な写真ですが、紹介します。この地方に限らず、3月3日の花の節句に女の子が生まれた家庭で雛飾りをするのは、日本全国共通の伝統行事です。ただ、この地方では、江戸時代から家庭や親族に女の子が誕生したら、おひな様を飾って盛大に祝う習わしがありました。この伝統的な祭りを綾町の活性化に繋げようと、綾町の商工会女性部が中心となり、中央通り商店街に趣向を凝らした雛飾りを展示して、盛大なイベントとして企画したのが2001年です。まだ、町を挙げての行事としては歴史は浅いのですが、展示物の素晴らしさや、スタンプラリー、特産品の販売,手打ちそば販売コーナー、お休み処(抹茶、ぜんざい、コーヒー販売)、春の花・ラナンキュラス品種見本園公開などさまざまな催しが効を奏して、今では宮崎ばかりでなく県外からもたくさんの人々が訪れ、鮮やかな雛飾りを堪能しています。 祭りのパンフレットによりますと、この「綾のひな山」は、以下の如く説明がなされています。
中央部分には膨大な量のコケ類が植えられています。その上には梅の花、ピラカンサやイモグス、最奥には巨木を配しています。まさに江戸の昔は、こんな風に作ったんだろうなと、思いがめぐります。また、向かって左手には、綾の照葉樹林帯を構成する椎の木、樫の木、カヤの木、クスの木など代表的な木々を配しています。また、下の写真の左端のようにひな飾りの下では鯉が泳いでいます。 真ん中の2枚の写真は、定食のいずもやさんの作品。ここも綾の山中の木々をふんだんに使っています。そして右端が、エーコープの作品です。JAらしく野菜類がたくさん並んでいます。また、ひな飾りは比較的小ぶりですが、周囲に宮崎特産の日向夏を配しています。梅の花や椿は定番です。 ただ、これも写真の映りが悪く細かな非常に繊細な部分をお伝えできないのが残念です。 ・・・綾の『ひな山』は江戸時代にはじまり、北麓の梅藪地区が発祥の地とされています。 女性は昔より山の神とされ、山の神が住むのにふさわしいもので御祝いをしてあげなければという想いから『ひな山』がつくられたといわれています。 決して豊かではない生活の中で、長女が生まれると親戚や隣近所の人たちが、粘土で土人形や木の枝で木製の人形などをつくり、山や川で拾ってきた巨木や、古木、奇岩、輝石を飾りつけ、花木などを持ち寄って奥座敷に山の神が住む風景を再現したものが『ひな山』のはじまりであると伝えられています。 『ひな山』には、長女のすこやかな成長と末永くしあわせにとの願いが込められています。・・・ 綾で生まれた女の子、特に長女は羨ましいですね。こんなに大切に、しかも「山の神」として、大事に育てられたのですから。裏を返せばそれだけ男たちが優しく女性に接していたと言うこともできるでしょう。実は、私の嫁さんも綾町の生まれですが、長女ではありませんが、かなり親や兄弟から可愛がられたようです。 《宮崎神宮大祭》 別名神武大祭と言われ、地元では「神武さん」の名で親しまれている宮崎県では一番規模の大きな祭りです。 最近は毎年、10月の最終土、日に行われていて宮崎神宮を出発した神賑行列が宮崎市の繁華街を縦断、神輿やかわいらしい稚児や花馬車が人の歩く程度のスピードで宮崎神宮から約5km先のお旅所まで練り歩きます。 また、この行列には地元企業などから選ばれたシャンシャン馬も花を添えます。 神賑行列の規模は1000〜1200名程度で沿道は、近隣市町や地元の人など、たくさんの見物客が歩道を埋めます。 祭りの形態も年とともに変わってきて、以前はシャンシャン馬に乗る「ミスシャンシャン馬」は県内各都市から選ばれていたのですが、近隣の7町代表になり、さらに現在は地元の企業からの選出に変わって来ました。 因みにシャンシャン馬とは、宮崎に昔からある風習のひとつで、結婚し立ての花婿が、花嫁を馬に乗せて鵜戸神宮に宮参りに行く時、馬につけた鈴の音がシャンシャンと鳴ることからそう呼ばれるようになりました。 神賑行列は、お旅所で1晩を過ごし翌日、同じ経路で宮崎神宮まで戻ります。 2日間の祭りの間は市内中心部が歩行者天国になり、露天が軒を連ね、郷土芸能の披露やのど自慢、ダンスコンクールなど夜遅くまで賑わいます。 祭りごとの終焉 安藤忠恕前宮崎県知事逮捕 安藤忠恕(ただひろ)前宮崎県知事が、県の出納長など部下に対し、東京の設計会社に発注するよう指示を出していたとして12月8日午後、警察に任意同行を求められ、宮崎北警察署での取調べの結果、競売入札妨害の容疑が固まったとして逮捕されました。 この1ヶ月宮崎県の幹部職員や業者が官製談合の疑いで次々と逮捕されるなか、前知事は議会や記者会見などで同事件への関与を強く否定してきました。県議会はそうした知事の、県政を混乱に陥れた責任と多数の直属の部下の逮捕など倫理的な責任から不信任決議案を提出し、全会一致で可決しました。安藤知事はこれに対し、議会解散や知事失職などの選択肢をちらつかせながら、結局は自ら辞職の道を選んでいました。警察の取調べで逮捕されたかっての複数の部下から、前知事の関与を示唆する供述が得られたものとみられています。
それにしても、このところの公務員の汚職事件はどうなっているのでしょうか。福島県ではダム汚職事件で、和歌山県では官製談合にからむ収賄容疑で知事が逮捕され、次は宮崎県。恥ずかしくて全国へ顔向けできません。宮崎県で知事が逮捕されたのは、これが2度目。前回は黒木天皇と呼ばれた故黒木博氏(後に最高裁?で無罪が確定)で、昭和54年トンネル工事にからむ受託収賄容疑で逮捕され知事を辞職しました。「3000万受け取りました」と言う領収書がマスコミに出回わってっていたのを思い出します。結局、無罪となりましたが、この時の事件をきっかけに、政治の世界での影響力は急速に衰え、やがて隠遁生活へと入って行きました。 これまで事件には無関係と強調、「辞職は事件への関与を認める事になるから、絶対にしない」と言い切っていた安藤知事、今日の逮捕ですべてが気泡と化してしまいました。
辞職の会見の時も「悔しい」、「無念でならない」を連発して「折角、手に入れた知事の座を離してなるものか」と言う態度がミエミエでしたが今頃、警察の独房で何を思っているのでしょうか。 この安藤前知事にはいろいろな「いわく」があります。選挙期間中は当選したい一心で、「県民が主役」「県政の改革」を盛んに訴えていました。また、特に、選挙で反対していましたシー-ガイアやスカイネットアジア航空への公金投入をあっさり認めたり、世界遺産への登録を目指していた綾の照葉樹林帯のど真ん中に九州電力の送電線を認めたりと、さらに前知事に近い幹部職員を大量に左遷する「報復人事」を敢行したりと、当選した途端に豹変し、公約を次々と破る節操のなさに唖然としました。
さらに、後援会幹部の妻に対して、知事当選の暁にはしかるべき地位を約束する念書を書き、この妻が公職選挙法の利益誘導に当ると、検察庁に控訴する事態に発展しました。これに対し、安藤知事は当時の県議会の答弁で念書は自筆である事を認めながらも、「異様な雰囲気で強いられたもの」と釈明して、この後援会幹部を強要罪で告訴すると表明する「泥仕合」となりました。 しかし、結局、嫌疑不十分で不起訴となり、うやむやのうちに闇に葬り去られた感じです。 3年間、結局何をしたのでしょう。ここ1ヶ月の激動では、いろいろなところに大きな影響が出ています。 逮捕者が出た直後の県庁での綱紀粛正を求める知事の要請をあざ笑うかのように、県庁職員が泥酔いの挙句、他人の家に上がり込んで、「オレは、土木部だ」と勇ましいこと。 ネオン街では、タイミングが最悪で、県や公務員、建設関係の業者の忘年会が次々とキャンセルになり、「年が越せない」と嘆く料亭、居酒屋、飲み屋、タクシー業者など苦りきっています。 一方、マスコミは、全国紙など福岡や東京から数十人単位で応援部隊を派遣、ホテルはこの時期潤っています。 また、知事公舎前や警察、県庁には1日貸切りのタクシーがずらりと並び、こちらはホクホク顔。宮崎の年末は悲喜こもごもに暮れて行っています。 ところで、知事辞職に伴う出直し知事選挙は来年早々に行われる見通しで、地元出身の有名タレントの名が取りざたされていますが、実のところ人材不足は否めないのが現状です。
(国指定重要無形民俗文化財)
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