★北海道★宮崎 |
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北海道★宮崎の片田舎から |
北海道と宮崎のページ北海道と言っても正直なところ、 宮崎生まれの私には、縁もゆかりもない遠い北の大地くらいにしか思えません。だからこそ、そんな 北海道のいろいろなことを知りたくなりました。私達 宮崎人は、暖かい気候にどっぷり漬かって、性格がおっとりしていて県全体にのんびりムードが、漂っています。 大自然の厳しさ、壮大なスケールの未知なる大地に魅せられ、南国宮崎の片隅から彼の地についてより知識を深めたいとの思いから、このサイトを立ち上げました。あらゆる方法で、知り得た北海道の情報を収集したいと思っています。 もちろん、宮崎育ちですので宮崎や九州のことにも触れていくつもりです。 ご訪問いただいた方々に少しでもお役に立てば幸いです。 関係する情報がありましたらよろしくお願い致します。 |
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| 北海道を宮崎から紹介〜top 宮崎の立体魚拓 北海道の温泉まとめて紹介 北海道の名産品紹介 JR北海道の紹介 北海道の高校野球 北海道の祭り紹介 北海道の植物、気候を通して 北海道釣りへの憧れ 宮崎の温泉紹介 宮崎でクラシックカー 宮崎の名産品の紹介 宮崎の旅・名所旧跡 宮崎の名所旧跡no2 JR九州の紹介 宮崎の高校野球 宮崎の高校野球2 宮崎の祭り紹介 宮崎の植物をランダムに紹介 宮崎は花がいっぱい! 宮崎はバラがいっぱい!! 宮崎の気候紹介 台風被害2005年14号台風 宮崎の釣りの紹介 亀と白の釣行バトルin宮崎 一口釣り情報in宮崎・門川 父の遭難と奇跡の生還in宮崎 プロフィール TOPへ リンク集 |
北海道って聞いてどんな所と思う? ごく一般の宮崎の人々が、北海道に対して持つ印象を集めてみました。 1、北海道は 広々していて気持ちが良い。 2、 寒そう 3、 ヒグマが怖そう 4、 北海道ミソラーメンが美味しそう。 5、 過疎が進んでいる。 6、 北海道にはアイヌ民芸ガ多い 7、 北海道にはスキー場がたくさんある。(スノボー) 8、 北海道の魚(特に鮭)やカニが美味そう。 9、 北海道には有名な温泉がたくさんある。 10 北海道の高校野球は強い
「赤れんが」の愛称で道民はもとより、広く日本人に親しまれている北海道庁旧本庁舎は、建築後120年経過した今でも1年中、赤く映え美しい姿を見せています。もちろん、当時は、国内でも有数の大建築物であり、このこと自体当時の建築技術がいかに優秀だったかを端的に物語っています。恐らく周囲を圧倒するスケールだったに違いありません。 建物は、幅が60m、奥行きが36mあり、一番高い所は、10階建てのビルに相当する33mもあります。建物の頂上には、八角塔がそびえています。この塔は、1873年に米国人開拓使ケプロンの計画で建てられ、6年後に消失しました開拓使札幌本庁舎の八角塔を模倣して造られたと言われています。 赤れんが庁舎は、1909年の火災で内部を消失しましたが、赤れんがの壁は、不幸中の幸いで消失を免れ、翌年、庁舎の修復工事が施され19911年に完成しました。 その後、は長い間、北海道開拓のシンボルとして君臨し続けました。そして、北海道百年を記念して1968年に、草創当時の姿に復元され、永久保存の工事が施されました。日本中を見渡しても、ここまで完璧な、しかも大規模な明治時代の洋風建築物は珍しく、1969年、国から重要文化財の指定を受けています。 インフォメーション 所在地:札幌市中央区北3条西6丁目 電話番号:011-231-4111 開館時間:午前9時00分〜午後5時00分 (尚、入館料は無料です。) 20.北海道遺産 「スキーとニセコ連峰」
ニセコ東山ほかニセコの代表的なスキー場 スキー場の代表格が昭和初期から知名度の高かったニセコ連峰。娯楽が多様化した今日、ウィンタースポーツだけではなく、四季を通しての新しいアウトドアスポーツの拠点となっている。 最上の粉雪と雄大なスケールで世界中のスキーヤー、スノーボーダーの聖地として名高いニセコ。そのニセコの中で最大の規模を誇るニセコひらふを運営してきたニセコ東急リゾートとニセコアルペンが統合され、「ニセコマウンテンリゾート グランヒラフ」として新しい歩みが昨シーズンより始まりました。 ふかふかの粉雪で山に遊び、世界中から集まった人たちと過ごすベースタウン。グランヒラフには、今までの日本のスキーリゾートにはない楽しみが待っています。 ニセコは大きく分けて3つのスキー場から構成されています。「東急系のニセコひらふ」「西武系のニセコ東山」「中央バス(JAL)のニセコアンヌプリ国際」です。それぞれのスキー場が頂上付近で接続されていますので好みのコースを攻めることが出来ます。 3つのスキー場の中で、一番リフト数、コース数が多いのは「ひらふスキー場」。その為学生達にも大変人気になっており、ゲレンデ周辺には、格安ホテルが何件もあります。 全山共通券を買わないと、全山利用する事はできません。ホテルとセットになっているのは、基本的にホテル前のゲレンデのみとなります。 スキー場からは正面に羊蹄山を目の前に迫りそのスケールには圧倒されます。緩急の変化に富んだコースレイアウトは、スキーヤー・スノーボーダーにとっては最高のシチュエーションです。 東洋のサンモリッツと呼ばれるゲレンデは、標高差940m、最長滑走距離5600mのビックなスキー場。多彩なコースバリエーションで、初級者から上級者まで心行くまで楽しめるスキー場です。 北海道遺産 北海道後志支庁にある南北海道を代表する火山。北海道遺産に指定されているニセコ連峰の東に位置し連峰の主峰ニセコアンヌプリから真正面に見えます。富士山に似た美しいコニーデ型の独立峰で成層火山で姿形が美しく蝦夷富士、後方羊蹄山(しりべしやま)とも呼ばれています。北海道西南部随一の海抜(1898m)を誇っています。この山には呼び名がたくさんあり、アイヌ名ではマッカリヌプリまたはマチネシリと呼ばれています。整った円錐形を示す死火山で生成は約1万年前といわれています。最初に羊蹄山に登った人は蝦夷地の探検家松浦武四郎と文献に書いてありました。寛永五年と記録に残っているそうです。登山コースは真狩、喜茂別、京極、比羅夫の4つのルートがありいずれのコースも良く整備されています。登山道にはメリハリがなく単調で、少々長く感じる登山になるかもしれません。かなり高い独立峰ですので、頂上からは360度のパノラマを見ることが出来ますし、下界からも素晴らしい眺めを堪能できる山です。麓は北海道名産のじゃがいも畑が広がっていますし、初夏にはきれいなシバザクラが咲くスポットも有名です。 18.積丹半島と神威岬 積丹半島の全長は約30kmありますが、平野部分が少なく積丹岳や余別岳が丁度、背中のように横たわり、結構厳しい地形です。沿岸部も変化に富んでいて風向明媚な景観を呈し、ニセコ積丹小樽国定公園に指定されています。その半島の先っぽに神威(カムイ)岬があります。岬の先端には、灯台があります。北海道開拓時代の1888年に鉄製で完成、点灯しました。高さは11.8m、海面からの高さは81.6mあります。そう大きな灯台ではありませんが、快晴の時は約40km先まで光が届くそうです。岬は、日本海に面しているので比較的風の強い日が多く、強風に悩まされることもおおそうです。岬には駐車場に車を止めて遊歩道登ったり下ったりして、崖の上を這うように進んでいきます。その先端に灯台が位置しているわけですが、ここからの眺めはまさに絶景です。日本海のどこまでも透き通った海に突き立った神威(カムイ)岩と、左手には半島のつけ根に向かって高さ約100m前後の断崖絶壁が続いています。一方、右手の方には積丹岬が見えます。ここからの眺めだけで疲れも吹っ飛ぶことでしょう。 そんな、最近まで人を寄せ付けなかったこの周辺には、オオワシやオジロワシ、ハヤブサなど大型の鳥類や海にはトドがやってきます。また、海は魚介類が豊富でヒラメ、イカ、ウニ、スケトウダラなどが名産品として多く生産されています。その昔は、留萌などと比較されたニシンの宝庫で一帯はソーラン節の発祥の地でもあります。 北海道遺産
※豊平館(ほうへいかん)は、札幌市の中島公園にある建物で、1879年に現在の大通りに面する位置に高級ホテルとして、開拓使営繕御用掛の安達喜幸が設計を担当、大岡助右衛門が建てました。工期は約一年を要しました。当時、日本には西洋式のホテルはほとんどなかった時代です。 最初に利用したのは明治天皇と言われています。以後要人の宿泊、祝賀会各種大会などに使われました。その後は公会堂となり、第二次世界大戦中に日本軍、戦後はアメリカの進駐軍に接収されました。1958年に中島公園に移設され、以後は国の重要文化財では極めて珍しく結婚式場として利用されています。 ※左の写真の時計台は、札幌市民ののシンボルとして札幌の歴史とともに歩んできました。市の中心地にあって開拓時代の様子を今に伝える札幌市民とは切っても切れない深い縁で結ばれています。もちろん重要文化財に指定されているこの建物は、正式名称を「旧札幌農学校演武場」と言います。三角屋根の上に大時計を載せ、札幌市民に時を告げていますが、実際のところ高層ビルの建ち並んだ現在は、時計台の周辺部くらいしか鐘の音が聞こえないのが実情です。ただ、市内の小中学校では鐘の音を録音して流している学校も数多く見られます。 ※清華亭は、札幌駅の西側、北海道大学のクラーク会館の道路を挟んで南側に建っています。明治13年6月、開拓使の貴賓接待所として建てられた清華亭は、翌14年明治天皇が札幌に行幸の際、休憩された由緒ある建物です。設計・監督は、開拓使工業局が担当し、札幌に初めて出来た「偕楽園」と言う公園の中に作られました。建築様式は、米国風ですが、内部には洋間に隣り合って和室も作られ和洋折衷の建物となっています。札幌市は、清華亭を一時期職員の住宅として使っていました。1961年に明治時代の和洋折衷様式を示す歴史的建築物として、札幌市が有形文化財に指定しました。1977年から78年にかけて、元の姿に戻す復元・修復工事を施しています。 聞いた相手は、知人が20名、仕事関係45名、街中を歩いている人55名の120名。 知人や仕事関係は、ほぼ100%答えてくれました。しかし、街中の逃げるように過ぎ去る人や 相手にしてくれなかった人の回答(あるはずがありません。)は、除いて正味120名の回答が、上の通りです。 ランダムに紹介しましたが、実はもうひとつ答えがあったのです。 それは、無回答つまり何も浮かばないと言うことです。その回答が120名のうち、33名 27.5%もあったのです。 もちろん、この数字は私自身が行った独断と偏見に基づくもので、何の公的機関の協力もない個人的なものですので、その点は誤解のないようにお願い致します。 北海道遺産ってなあに? 宮崎に住んでいる人に訊いたことはありませんが、「北海道遺産? 『世界遺産』の間違いやろう」と,答える人が、おそらく約9割を超えると思います。 私自身、北海道遺産構想推進協議会などの趣意書などを読んで趣旨は良く分かりましたが、どこに何があるのか、どんなものが遺産に登録されているのか、これから勉強するところです。 平成9年、当時の知事が打ち出した「北の世界遺産構想」を元に、遺産の選定、遺産として残す意義、啓蒙活動など、始まりは官主導でしたが次第にその輪が広まって行きました。 環境破壊、地球温暖化など限られた地球で暮らす私たちにとって、一度破壊してしまったものは、二度と戻ってこないし、屯田兵の時代から脈々と流れる文化やアイヌの習慣、歴史的な建物などの遺産を後世に残そうと言う運動は、観光客を巻き込みまさに日本の最先端を走る素晴らしいアイデアと言えます。 北海道遺産構想推進協議会によりますと、 「『北海道遺産』は、次の世代に引き継ぎたい北海道の大切な宝物です。豊かな自然はもちろんのこと、北海道に生きていた人々の歴史や文化、生活、産業など有形・無形の財産の中から、道民参加によって選ばれました。 平成13年10月に第1会選定分25件が、平成16年10月に第2回選定分27件が決まり、52件の北海道遺産が誕生しています。」と、話しています。 そして、北海道遺産構想は、 まちの宝物を探し、それを守り、磨き、活用する過程で、まちの元気や魅力の種を育み、新しい魅力をもった北海道を創造していく運動です。 北海道遺産の多くには、北海道遺産に深く関わりながら活動する「担い手」の市民が存在し、官主導ではない構想の象徴となっています。 すでに、北海道遺産が所在するまちでは様々な活動が展開されているとともに、企業によるツアーや北海道遺産関連の商品開発も進み、この構想は着実に歩み始めています。 北海道遺産
しかし、それにしてもあまりにも回答なしが多過ぎます。 宮崎から見ればそれほど、縁がないのかと悲しくなってしまいました。 恐らく、逆に北海道で宮崎の印象を聞いて見ても五十歩百歩でしょう。 まあ、致し方ないことです。 次に、回答していただいた方にもう少し突っ込んで、北海道のどこが(どんな食べ物が)好きか、印象にあるか聞いてみました。 北海道と聞いて何が頭に浮かぶ? 答えてくれた順に写真を交え紹介します。あっそうそう。同時に宮崎のなんとなく似ていそうな所も北海道の人たちに紹介します。
ところで、私自身の北海道観と言えば、私のような宮崎の片田舎に住んでいるものにとっては遠い遠い外国のような存在。イメージ的には都会的な、洗練されたスケールの大きい土地柄とでも言ったところでしょうか。 以前は、北海道−宮崎間に、JAS(現JAL)が週2〜3便就航していて、互いの観光協会を通して、春に宮崎から桜が、初夏には北海道からスズランが、贈られたりしていたのを覚えています。 しかしながら、利用客がだんだん少なくなり現在、就航している直行便はありません。 北海道に行こうとするなら、福岡、鹿児島、大阪、東京、名古屋などで乗り換えなければなりませんので、接続便がうまくいかないと片道4〜5時間かかってしまいます。 それだけに、「北海道に旅行して来た」宮崎人に出会うと羨ましく思えます。もっとも「行って来た」と言う人にほとんどあったことがありませんが・・・・。 宮崎からですと韓国や台湾、中国に行く方が距離的にも時間的にも北海道に行くより近いですから、そちらの方面に行った人はたくさんいますが・・・。 加えて情報量も豊富です。 わたしにとっては、時間に余裕があって、その上お金にゆとりがないと、なかなか行くことの出来ない未知の大地と言うことになりますね。 現在は、地元のデパートで「北海道名産市」、「北海道どさんこ市」、「北海カニ三昧」等と言った催しが開かれますが、珍しいだけにいつも盛況です。私も出掛けてみて、少しだけ北海道の雰囲気を味わったりしています。 ところで、何で宮崎人の私が「北海道観」か、と申しますと、昔むかしの大昔、私が小学校5年生の時、3軒隣に住んでいたおじさんが仕事の関係で、2ヶ月に1回位の割合で北海道に出張に行っていて、帰ってくるたびに土産物をくれたり、熊と遭遇した話しや温泉、大雪などの話しをしてくれました。 話しがうまく臨場感があり、子供心に想像心を掻き立てられ、よく行ってみたいと口にしていたのを覚えています。その時、頂いた熊の木彫りはいまでも実家に飾っています。 ですから私の小さい頃の記憶の大部分は、東京、大阪ではなくて北海道のことで占められていたのです。 ただし、その後、今日に至るまで北海道を訪れる機会はありませんでしたので子供の頃 聴かされた記憶と現在の彼の地の知識とは、ほとんど差がありません。 言い換えますと、私の北海道に対する情報量はゼロに等しいのです。 そこで一念発起して北海道について調べて見ることにしました。 その前に、私が住んでいる宮崎の特徴について触れておきます。 地元紙に観光や商用で訪れた人々に「宮崎の印象」を聞くコラムが毎日連載されています。 それによりますと、 1. 空港周辺や街の中心部の景色がいかにも南国的 2. 太陽が刺すように痛い 3. さすが冬でも暖かい 4. 冬、なかなか陽が沈まない(1月の日の入りは午後6時前) 5. 空が広い(高いビルが少ないから) 6. 道路が広い(通っている車が少ないから) 7. 食べ物(野菜・魚介類)が新鮮 8. 物価が安い(給料も安い) 9. 人情豊か 10. 人が親切 11. 車がのろい(歩くのも遅い) 12. 性格がのんびりしている 13. 競争心にかける 14. 根気、粘りがない 15. 引っ込み思案の印象を受ける などなど、大方は好意的な意見を頂戴していますが、中には厳しく後進県から抜け出せない根本原因をズバリ突く訪問者もいます。 ある日、北海道のことを調べようと、宮崎市内で大型と言われる書店をのぞいて見ました。 ところが、北海道についての紹介本がほとんど見当たりません。有名テーマパークや東京、大阪、京都、福岡など主だった都市の紹介本ばかりで北海道に関する観光本が一冊も見当たらないのには驚きました。 店員に聞きましたところ、売れ筋中心の品揃えを行っていてそれ以外は電話注文で対応しているとのこと。 いかに「北の大地」との接点がないか痛切に感じました。
一方、皮肉なことに地元宮崎について紹介している書籍も、タウン誌を除くとほとんど置かれていません。 意外と地元の人より県外の人の方が良く知っていて、「○○○のステーキは安くておいしい」、「△△△のラーメンはスープが最高」、「○○○は巨人の○○選手のいきつけの店だよ」なんて話しはしょっちゅう耳にします。 また、「△△△ホテルから見える眺望は最高。料理もセンスがあって素晴らしい」と、言われても、地元に住んでいれば、ほとんど地元のホテルに泊まる機会がありません。 目的を持って訪れる人は事前に準備したり、旅行会社やインターネットで予備知識をふんだんに蓄えて訪れるので、かえって地元に住んでいる人より穴場や観光スポットに精通しているケースが多くあります。 そんなわけで、私にとり「未知なる大地」を情報量の少ない中で書籍やインターネットを駆使して紹介していきたいと思います。合わせて私のふるさと宮崎についても関連して紹介していきます。 情報の少ない部分については、猛勉強して可能な限り内容を濃くしていきたいと思っていますので、いつでも気軽にお立ち寄り下さい。
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北海道佐呂間町は、オホーツク海沿いの漁業と農業の町です。たつ巻が、この町の40近い世帯の生活を一瞬にして破壊してしまいました。 住宅の補修まではなかなか手が回らない中、厳しい冬が迫っています。住まいを失った人たちの不安は募るばかりです。。 9日朝の同町の最低気温は2.7度。前日よりは2.5度下がるなど、これからのことを考えると、「家をどうするかも、どこで冬を越すかも、先のことは分からない」 と被災者は言います。 屋根が吹き飛ばされた一人暮らしの女性は「冬は嫌い。今年は本当に気が重い。屋根の工事を頼んだけれど、年金生活には修理費がつらい」と話し、シートに覆われた屋根を見上げていました。。 佐呂間町に近い網走市では1日に初雪ガ降りました。年が明けると、オホーツク海に流氷が押し寄せるてきます。 気温が零下30度になることもしばしばです。2004年1月には2階建ての屋根に届くほど雪が積もりました。 被害にあった住宅では、窓枠に木の板をはめこんで応急措置する光景があちこちで見られます。 事務所の屋根に穴が開いた鉄工所の従業員は言いました。 「雪が降ると足場が悪くなり、修繕作業は非常に難しい。応急処置で冬を越し、本格的な修理は春まで待つしかない」 同町の堀次郎町長は「住民が不安を感じないようにしたい」。 被災地の視察に訪れた冬柴国土交通相も「住宅の復旧には前向きに取り組みたい」と語りました。 |
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| いやあー、今回の宮崎県の出直し選挙にはびっくりしました。地元の新聞も、「晴天のへきれき」なんて失礼なことを書くほど予想を大きく違える結果に終わりました。開票が始まって3分も経たないのに、NHKは当選確実を打つ素早さ。他局も続けて当確を打ち、早々と東氏の知事就任が確実となりました。テレビでの画面では、保守の有力候補が得票数を伸ばし東氏を徐々に引き離しているのに、一方では勝利の万歳と記者会見。「さあこれから」 選挙結果を観ようとテレビの前に座った事情を知らない人は「なんで?」と、いぶかるまさかまさかの、そのまんま東氏の電光石火の圧勝選挙でした。 宮崎県知事選得票 当 そのまんま東 266,807 無 新 川村秀三郎 195,124 無 新 持永 哲志 120,825 無 新 津島 忠勝 14,358 共 新 武田 信弘 3,574 無 新 (1月22日午前0時15分最終) 任期は同日から4年。投票率は64.85%で、前回03年7月の59.34%を上回った。当日有権者数は93万2127人。天気曇り時々雨
今回の選挙は、2005年の台風14号の被害を受けた橋の架け替え工事受注に関する官製談合や収賄容疑など、金にまつわる不祥事で辞職した前知事の後を受けての出直し選挙でした。 自民党が、地盤や人脈などのしがらみにどっぷり浸かった高級官僚出身の有力候補を一本化できずに分裂した状態で選挙戦に臨まなければならなかったことが、保守敗北へと繋がりました。 ただ、東氏に対しては、最初から支持が集まっていた訳ではありません。 むしろ、「タレントに何が出来る」、「東が知事になったら宮崎は終わり」、「知事になったら宮崎の恥」等など、東氏の、過去の週刊誌「フライデー」襲撃事件や児童福祉法違反容疑、後輩への暴力と言うマイナスのイメージばかりが取り上げられ報道されていました。 一方、地元の県議は「宮崎県政最大の危機で、次の知事は責任重大。タレントに務まるとは到底思えない」と、不快感をあらわにしていました。 なるほど、東氏にあるのはタレント経験30年の知名度だけ。 大学で地方自治を学んだと言っても机上の論に過ぎず、行政経験は皆無で知事候補としては全くの未知数、いや県民はむしろ冷ややかな目で見ていました。 告示前のテレビの討論会では、カタカナ文字を頻繁に使い、「談合は必要悪」などとと発言、物議をかもすと、翌日、「舌足らずだった。」とあわてて訂正するなど、話題性が先走って危なっかしい面ばかりが目立っていました。 告示前は、表立った行動はせず、控えめな挨拶周りや、数人の同級生と街頭に立っても演説はせず、ビール箱の上から、通り過ぎる車にただ手を振るだけ。 その傍らを下校する小学生が「ヒガシ、ヒガシだ」と冷やかして帰る、そんな心細いスタートでした。 告示後の序盤戦も、まだまだ地味な戦いは続き、選挙慣れした参謀が揃う保守候補に後れを取っていました。
しかし、日が経つにつれ、タレントに見切りをつけ退路を絶っての参戦と、芸能人の応援を一切受け付けなかった姿勢が受け入れられるようになり、また、しがらみを嫌う有権者の思いにも変化が見られるようになり、風向きが少しずつ東側に変わるようになりました。 また、独自に策定した80項目を超える「そのまんまマニフェスト」を街頭演説や立会い演説会、政権放送などで披瀝。具体的な数字を示しての宮崎県政刷新を分かりやすく説き、時には過去の自分をさらけ出して笑いを誘ったり、「このままじゃ宮崎は夕張の二の舞いになっとです。 どげんすっとですか」「宮崎を変えんといかんとです。」「しがらみのないわたしがせんで、だれがすっとですか」「金が欲しけりゃ芸能界のほうがよっぽど儲かっとですよ」など、宮崎弁をふんだんに織り交ぜ熱弁を振るう姿が、単なるパフォーマンスだけでなく「意外と真面目、本気だ」「話しが面白くて内容が分かりやすかった」「しがらみがなくてクリーン」と、聴衆の心にも響くようになり、遊説の先々で勝手に応援する勝手連が自然発生的にできていき、終盤になると演説会場が超満員に膨れ上がるまでに盛り上がりを見せました。 そして、選挙戦最終日には、繁華街で得意のランニングを披露して17日間に渡る選挙戦を終えました。 今回の選挙結果を見て驚くのは、共産党を含む特定政党支持者のかなりの部分がそのまんま東氏に入れたこと。自民党はもちろん、公明党の支持者でさえも東氏に投票しています。 これは、この選挙自体が金にまつわるしがらみ・不祥事からスタートして、県民は汚職は二度と要らないと候補者に意思表示したことを鮮明に物語っています。 「そのまんまマニフェスト」の中で、私の「思い」と題した項目があります。 原文の通り紹介させていただきます。 今、宮崎県政が危機に瀕しています。県行政の不正と醜態が全国に晒され、一宮崎県民として、私も恥ずべきことだと感じています。県政は県民の生活の根幹を成すもの。県政がぐらつけば、県民生活もぐらつきます。県政への不安は、県民福祉の低下、地域経済への悪影響に直結する重大な問題に繋がりかねません。 「宮崎はこんままでよかっちゃろかい?」 「そのまんまマニフェスト」の中で、私の「思い」と題した項目があります。原文の通り紹介させていただきます。 今、宮崎県政が危機に瀕しています。 県行政の不正と醜態が全国に晒され、一宮崎県民として、私も恥ずべきことだと感じています。 県政は県民の生活の根幹を成すもの。 県政がぐらつけば、県民生活もぐらつきます。県政への不安は、県民福祉の低下、地域経済への悪影響に直結する重大な問題に繋がりかねません。 宮崎を故郷に持つ人間として、私は宮崎の現状をこのままほっとく訳には行かない。 宮崎のために私ができることを、とにかく全てやりたい。 「宮崎をどげんかせんといかん」 「何とかせんといかん!」 私がこれまで培ってきた経験やスキル(手練)を今こそ宮崎に還元し、宮崎の宮崎による宮崎のための活動を県民の皆様と一緒に協働・共有したい。 私の持っている全てのエネルギーやマンパワー、ネットワークをフルに活用し、この豊かな宮崎を日本国中・世界中にPRしていくことで、宮崎再建・宮崎自立に尽くしたい。 本気で宮崎人の底力・ポテンシャル(潜在能力)を引き出し、皆で協力し合って、郷土の更なる発展と活性化、県民の最大幸福に資する覚悟をもって、そのまんま東は宮崎に帰ってまいりました。 また、「そのまんまマニフェスト」を ★「そのまんまマニフェスト」について ★ 政策理念 で総論を述べた後、 1、「宮崎がんばいよ」宣言! 「将来」の生活向上への投資 2、「宮崎どげんかせんないかんが」宣言! 「今」の暮らしの充実化 3、「宮崎は変わらんといかんが」宣言! 「過去」からのしがらの一掃 の3項目ついて具体策をまとめ宣言しています。 当選直後の現在は、話題性が先行して全国的なニュースやワイドショーで大々的に取り上げられています。宮崎がどこにあるのか判らなかった人々も、少しは(九州のどこにあるか)判ってくれたことでしょう。 それだけ宮崎に目が向けられたことだけでも大きな意義があると思います。 権力を乱用して利権をむさぼる、何も宮崎に限ったことではありませんが、権力を手に入れた人が欲に目がくらみどれだけの政治家が政治生命ばかりでなく人生を棒に振ったことか。 この種の事件は奥が深くなかなかなくなりません。 ですから、今回の出直し選挙は、大政党のしがらみを避けて宮崎を本当に良くしたいと訴えた東氏の心の叫びが、見事効を奏したと言えます。 さらに、意外だったのは暴力や性的犯罪に嫌悪感を抱く女性の有権者が圧倒的に東氏を支持したことです。確かに、選挙前や序盤戦は拒否反応のほうが、かなり上回っていました。しかし、東氏のしがらみのない行動や訴えが本物と共感を覚えたこと、過去の事件を笑いに替えて正直に話すことに好感を抱いたからでしょう。 いずれにせよ、東国原知事は荒海に魯を漕ぎ出しました。 船倉やデッキまで人があふれ、荷物が山のように積まれています。 その東国原丸に乗船した人々は、船長の舵取りを固唾を呑んで見守っています。 そんな小船に対し、巨大タンカー・自民党の元重鎮は批判的なコメントを出していますし、オール野党の県議会議員も、しばらくは批判的な目でお手並み拝見と言ったところだと思います。 また、これまで官僚出身や県庁OBの知事に仕えてきた当の県庁職員も戸惑いを隠せないのが表情から見てとれます。 今はマスコミの格好のネタです。翌朝のテレビは、「朝ズバ」のみのもんたから宮崎と結んで中継を入れたのを皮切りに地元のテレビ、ラジオも知事戦の話題一色と言った感じです。 どの番組もほとんど好意的に取り上げ、行政手腕は未知数ですが、宮崎県政が変わるきっかけになることを期待した意見ばかりです。 しかし、いずれマスコミは冷めていきます。一刻の猶予も許されない県政刷新への舵取りはもう始まっています。ただ、県議団のお手並み拝見と言うのも情けない話しですが・・・。 孤独で厳しい戦いはむしろこれからが始まりです。 地元宮崎県民は、しがらみのない同知事に県政を託した訳ですから、荒波にもまれても向こう4年間は東国原丸と言う小さな船に乗船しなければなりません。 小船が沈没しないよう宮崎県をどう変えるのか。宮崎県がどう変わるのか。マニフェストで公約した事柄にどう取り組んでいくのか、中立の立場でじっくり見ていきたいと思います。 東氏は、今後本名の東国原英夫で知事職に専念されるとのこと。 当選の喜びもつかの間、23日からは県庁に登庁し公務が始まります。 選挙期間中、多くのマニフェストを掲げ、選挙戦を勝ち抜きましたが、マニフェストの大部分は財政再建と福祉の充実、雇用、景気振興策など。 数字は具体的ですが、かなり荒療治をやらないと達成が困難な数値目標ばかりです。 しかも、県議会は、すべてが野党。孤軍奮闘を余儀なくされるのは目に見えています。知事をはじめ職員の給与カットなど、問題解決には議会とどう折り合いをつけていくか。 この点が知事としての真価が問われる一番のポイントとなるでしょう。 長野県の田中康夫前知事は議会と対峙し結局、脱ダム宣言はしたものの不信任案があっさり可決し失職。再選は果たしたものの3選目であえなく落選しています。 12年前誕生した、東京、大阪の故青島幸男氏や横山ノック氏も途中で頓挫しています。 東氏には、選挙中訴えた「宮崎を変えんといかんとです」を是非実現してもらいたいと強く願っています。
(1)ゆとりのある国民生活の実現 (2)当該地域の振興 (3)国民福祉の向上 (4)国土や国民経済の発展 などを目的に、昭和62年(1987)5月成立した法律です。 宮崎シーガイアは、この法律がすべての始まりです。 当時の宮崎は、新婚旅行の行き先を沖縄やグアム・サイパンに取られ、観光産業が不況のどん底にあえいでいました。 この法律では、リゾートの事業に関わる道路・交通・下水などや公共施設の整備などのリゾート施設設立に対しては、地方自治体による援助があり、農地転用、林地開発などの規制が緩和されました。 宮崎県は、この法律適用指定を受けるために真っ先に立ち上がりました。 そして、昭和62年三重県とともに第一号指定を受けたのです。 宮崎県、宮崎市はもちろん、県民こぞってこの法律によるリゾート開発に大きな期待を寄せ、新婚旅行ブームの再来など、宮崎の将来にばら色の夢を描きました。 一方、このリゾート法の制定を受けて、全国の自治体から膨大な数の開発計画が提出されました。宮崎シーガイアもその中に組み入れられました。まさに全国有数の大型開発計画です。 全国的にも欧米並みのリゾートを合い言葉に、超高級リゾートが計画され、そして相当数が建設されていきました。既存の観光地、名所の開発もありましたが、何もない広大なエリアを使った開発もありました。 その多くが複合的な施設開発でした。 宮崎シーガイアは、宮崎市の一ツ葉海岸の幾重にも連なる貴重な松林を、「リゾート法」による宮崎再生の美名のもとに、大規模な伐採を敢行していきました。 時はバブル全盛の時代。当初予定した計画から建設費の高騰が続き、経費は当初見積もった額の2倍とも3倍とも言われています。それでも、宮崎県知事を筆頭に、県幹部や建設主導の旭洋・佐藤棟良社長は成功を信じて疑わず、「これをやらなかったら、宮崎には何も残らないとの思いで取り組んだ。必ず世界が注目してくれると思う」と、構想実現に突き進んでいきました。 そして43階建てのホテルに、全長300メートル、幅100メートル、高さ38メートルの、世界最大級の屋内型ウォーターパークが平成5年(1993年)7月、バブルがはじけた後、オープンしました。 水着入社式や英国の有名なロックシンガー・スティングを招き、全国的なCM放映などユニークかつ派手ななパフォーマンスで日本中の目を宮崎へ引きつけました。 テーマパークに程近い宮崎市住吉には、4階建ての大規な男女独身寮が建てられ、入社仕立ての若者たちで熱気と、将来への希望に満ち満ちていました。 ただ、当初の計画にドームの建設はありませんでした。当然でしょう。ドームから歩いて10分もすれば、太平洋つまり海があるのですから、普通に考えても海の側に巨大な泳げる施設などナンセンスそのものです。 当時二人三脚でリゾート開発を進めた松形祐堯・元知事は著書の中で、「モデルはカナダにあり、会社関係者が視察、帰国したその足で東京の大手企業と早手回しの契約をした経緯があった」と、述懐しています。このカナダの施設は確かに、会社関係者が視察に訪れた際、多くの客で賑わい、潤っていたのは事実のようです。 しかし、決定的に違っていたのは、施設が海から遠く離れていたのと、施設がある所が夏でも冷涼で施設が温水で客に受け入れられていたと言うことです。 カナダの成功を宮崎にそっくり当てはめること自体に無理がありました。しかも、ドームだけで最終的な経費は500億円近くまでになっていました。 そして、オープン。宮崎市に住んでいるので行こうと思えばすぐにでも行けます。 当初、採算性からドームの入場者は、1日平均7,000人、年間250万人と弾いていました。 大人の入場料は、確か4,200円だったと思います。入場するだけでこれだけの金がかかります。 しかも、ドーム内のアトラクション施設を利用するのにまた金が必要で、その上、弁当などの持ち込み禁止のため、食事の際は場内のレストランや食堂を利用しなければならない入場した客からは取るだけ取るシステムになっていました。その上、レストランなどの高くてまずい料理は評判でした。 隣りのホテル45にしても状況は同じようなもの。「全室海向き」をうたい文句に豪華絢爛のホテルでしたが、宿泊料金も絢爛豪華で地元宮崎人の収入ではとても泊まれる価格設定ではありませんでした。 オーシャンドームといい、ホテルといい、ゴルフ場といいシーガイアの顔は、東京、大阪などの大都市を向いていて宮崎人など全く相手にしていなかったと言います。(実際、勤めていた管理職から聞きました。) そんなオーシャンドームでしたが、アトラクションの充実や1度は行ってみたいと言う客などで、開業2年後の平成7年(1995年)には入場者が120万人(結果的にはこの年がピークになりましたが)に達し将来に明るい展望が開けました。 しかし、これでも黒字化にはメドが立たない数字です。 あくまで開業時設定した1日7,000人、年間250万人の入場者がなければ黒字化は達成不可能なのです。 会社は、恐らくこれほどの規模の施設。1度訪れたら2度、3度と訪れる、いわゆるリピートを収入の中に弾いていたのでしょう。 しかし、会社の思惑とは違い、リピーターの数は極めて少ないものでした。リピーターを誘導するには、魅力あるアトラクション施設を増設していくのはこれらテーマパークの常道。 しかし、開業までに当初をはるかに上回る経費を使った関係上、高額な施設の増強はそもそも無理な話し。 そこは何とか、一度訪れた客が、口づてに親戚、知人に伝えて再度、訪れてくれる。そんな会社側の甘い思惑もありましたが、もろくも崩れ去りました。 それどころか、「1度行けば十分。2度と行きたくない」と言う声を県内のあちらこちらで聞きました。ドーム経験者が、セールスマン的役割を担うところが、現実はアンチドーム派へ。 入場料や場内施設使用料の高さ、料理のまずさ、品祖な土産品など、楽しく遊べるはずのテーマパークなのに、夫婦と子供2人で訪れると、とんでもない出費が家庭を圧迫する結果となりました。 平成7年をピークに、入場者は下降線を辿ります。 慌てた会社は、県内在住者の入場料金を半額に下げたり、小中学校に無料招待券を配ったりとようやく県内に目を向け始めました。 しかし、時既に遅し。年を追うごとに累積の赤字幅はふくらみ、もはや立ち行かなくなるところまで追い込まれました。 そして、2001年2月には第3セクターとしては過去最大の負債3261億円で会社更生法の適用を申請した後、米国ファンドのリップルウッド・ホールディングスに二束三文まで売り叩かれ、シーガイアは外国資本の手に渡ってしまいました。 買収された後、シーガイアは存続するものの、米国式のシビアな経営で徹底的な合理化のもと、再建へ向けて営業努力を図ってきました。 しかし、オーシャンドームは、一時休止をはさみ営業を続けてきましたが、あまりに巨大な施設ゆえ採算が取れず、とうとう平成19年(2007年)9月30日を持って、開業してからわずか14年で閉鎖と言う悲しい結末を迎えました。今後、オーシャンドームがどのような末路を辿るのか、今のところ会社側からの説明はありません。
折から、オーシャンドームのすぐ脇では、サクラが別れを惜しむように花びらを開いていました。 |
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宮崎の県鳥コシジロヤマドリ |
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